『主神(エホバ)』様直接の御啓示

文明の創造

目 次

総 篇

序文
既成文化の謬点(びゅうてん)
天国建設の順序と悪の追放
悪と守護霊
悪の発生と病
健康と寿命
救ひ主と贖罪(しょくざい)主
地上天国

科学篇

病気とは何ぞや
病気と医学
医学の解剖
病気とは何ぞや
 寒冒
肺炎と結核
肺患と薬毒
結核と精神面
自然を尊重せよ
結核と特効薬
栄養
人間と病気
無機質界
霊主体従
薬毒の害
心臓
胃病
主なる病気(一)
 腎臓病と其(その)他の病
主なる病気(二)
 肋膜炎と腹膜炎
喘息
肝臓、胆嚢(たんのう)、膀胱の結石
神経痛とリョウマチス
上半身の病気と中風
脳貧血其(その)他
 睡眠不足
 耳鳴
 其(その)他のもの
 扁桃腺炎
口中の病など
下半身の病気と痔疾
婦人病
小児病
総論
手術
薬毒の種々相
人形医学
擬健康と真健康
種痘

宗教篇
 
最後の審判
霊的病気
 癌病
 結核と憑霊(ひょうれい)
 精神病と癲癇(てんかん)
唯物医学と宗教医学
霊界に於ける昼夜の転換
仏滅と五六七の世
仏教の起源
伊都能売(いづのめ)神
観世音菩薩
彌勒三会(さんえ)
仏教に於ける大乗小乗
キリスト教
善悪発生とキリスト教
経(たて)と緯(よこ)

天国篇

天国篇
ミロクの世の実相

序文
総篇

 序文

 此(この)著は歴史肇(はじま)って以来、未(いま)だ嘗(かつ)てない大著述であり、一言にしていへば新文明世界の設計書ともいふべきもので、天国の福音(ふくいん)でもあり、二十世紀のバイブルでもある。といふのは現在の文明は真の文明ではないので、新文明が生れる迄の仮の文明であるからである。聖書にある世の終りとは、此(この)仮想文明世界の終りを言ったものである。又今一つの〝洽(あまね)く天国の福音(ふくいん)を宣(の)べ伝へられるべし。然(しか)る後末期到る〟との予言も、此(この)著の頒布(はんぷ)である事は言う迄もない。そうしてバイブルはキリストの教へを綴ったものであるが、此(この)著はキリストが繰返し曰(い)はれた処の、彼(か)の天の父であるエホバ直接の啓示でもある。又キリストは斯(こ)うも言はれた。『天国は近づけり、爾等(なんじら)悔(くい)改めよ』と。之によってみれば、キリスト自身が天国を造るのではない。後世誰かが造るといふ訳である。
 処が私は天国は近づけりとは言はない。何となれば最早(もはや)天国実現の時が来たからである。それは目下私によって天国樹立の基礎的準備に取り掛ってをり、今は甚だ小規模ではあるが、非常なスピードを以(もっ)て進捗しつつあって凡(すべ)てが驚異的である。それというのも一切が奇蹟に次ぐ奇蹟の顕はれで、人々は驚嘆してゐる。そうして之を仔細に検討して見る時、神は何万年前から細大漏す処なく、慎重綿密なる準備をされてゐた事である。之は明瞭に看取(かんしゅ)出来るが、其(その)根本は旧文明の清算と新文明の構想にあるのであって、私はそれに対し実際を裏付とした理論を、徹底的に此(この)著を以(もっ)て説くのである。そうして先(ま)づ知らねばならない肝腎な事は、旧文明は悪の力が支配的であって、善の力は甚だ微弱であった事である。処が愈々(いよいよ)時期来って今度は逆となり、茲(ここ)に世界は地上天国実現の段階に入るのである。然(しか)し之に就(つい)ては重大問題がある。といふのは旧文明は当然清算されなければならないが、何しろ世界は長い間の悪の堆積による罪穢(ざいえ)の解消こそ問題で、之が世界的大浄化作用である。従って之による犠牲者の数は如何(いか)に大量に上るかは、到底想像もつかない程であらう。勿論之こそ最後の審判であって、亦(また)止む事を得ないが、神の大愛は一人でも多くの人間を救はんとして私といふ者を選び給ひ、其(その)大業を行はせられるのであって、其(その)序曲といふべきものが本著であるから、此(この)事を充分肝に銘じて読まれたいのである。
 そうして右の如く最後の審判が終るや、愈々(いよいよ)新世界建設の運びになるのであるが、其(その)転換期に於ける凡(あら)ゆる文化の切換へこそ、空前絶後の大事変であって、到底人間の想像だも不可能である。勿論旧文明中の誤謬(ごびゅう)の是非を第一とし、新文明構想の指針を与へるものである。それを之から詳しく説くのであるが、勿論之を読む人々こそ救ひの綱を目の前に下げられたと同様で、直(すぐ)に之を摑めば救はれるが、そうでない人は後に到って悔(くい)を残すのは勿論で、時已(すで)に遅しである。以上の如く罪深き者は亡び、罪浅き者は救はれて、将来に於ける地上天国の住民となり得るのである。そうして来(きた)るべき地上天国たるや其(その)構想の素晴しさ、スケールの雄大さは到底筆舌に尽せないのである。其(その)時に到って現在迄の文明が如何(いか)に野蛮極まる低劣なものであったかがハッキリ判ると共に、人類は歓喜に咽(むせ)ぶであらう事を断言するのである。

 既成文化の謬点(びゅうてん)

 此(この)著は序文にもある通り、現代文明に対する原子爆弾といってもよからう。そうして既成文明の根幹となってゐる宗教も、思想も、哲学も、教育も、科学も、芸術も悉(ことごと)く包含されてをり、其(その)一々に就(つい)て鋭い眼を以(もっ)て、徹底的に批判し究明し、赤裸々に露呈してあるから、之を読むとしたら何人と雖(いえど)も古い衣を脱ぎ棄(す)て、新しき衣と着更(きが)へざるを得ないであらう。此(この)意味に於て本著が人々の眼を覚ますとしたら、茲(ここ)に既成文明は一大センセーションを捲起し、百八十度の転換となるのは必然であり、此(この)著完成の暁は全世界の宗教界、各大学、学界、言論界、著名人等に適当な方法を以(もっ)て配布すると共に、ノーベル賞審査委員会にも出すつもりであるが、只(ただ)惜しむらくは同審査委員諸氏は、唯物科学の権威であるから、初めから理解する事は困難であらうが、此(この)著の説く処科学の根本をも明示してあり、悉(ことごと)くが不滅の真理である以上、充分検討されるとしたら、理解されない筈(はず)はないと思うのである。
 之に就(つい)て重要な事は、今日迄の学者の頭脳である。それは彼等は宗教と科学とを別々のものとして扱って来た事で、此(この)考へ方こそ大きな誤りであったので、それを根本から解明するのが此(この)著の目的である。そうして地球上に於ける森羅万象一切は、相反する二様のものから形成されてゐる。それは陰陽、明暗、表裏、霊体といふやうになってゐる。処が今日迄の学問は体の面のみを認めて、霊の面を全然無視してゐた事である。といふのは霊は目に見えず、機械でも測定出来なかったからでもあるが、其(その)為学問では今日迄地球の外部は、只(ただ)空気と電気だけの存在しか分ってゐなかったのである。処が私はそれ以外確実に存在してゐる霊気なるものを発見したのである。之に就(つい)ては先(ま)づ地球上の空間の実態からかいてみるが、それは斯(こ)うである。即ち前記の如く霊気(火)空気(水)の二原素が密合し、一元化した気体のやうなものが、固体である地塊(土壌)を包んでをり、此(この)三原素が合体して、宇宙の中心に位置してゐるので、之が吾々の住んでゐる世界及び周囲の状態である。処が科学は右の空気と土壌のみを認めて、霊を認めなかったが為、空気と土壌の二原素のみを対象として研究し進歩して来たのであるから、言はば三分の二だけの科学で全体ではなかったのである。此(この)根本的欠陥の為如何(いか)に進歩発達したといっても、三位一体的真理に外(はず)れてゐる以上、現在の如き学理と実際とが常に矛盾してゐたのであるから、此(この)欠陥を発見し是正しない限り、真の文明世界は生れる筈(はず)はないのである。そうして右三者の関係を一層詳しくかいてみると、経(たて)には霊、空、地の順序となってをり、彼(か)の日月地の位置がよくそれを示してゐると共に、緯(よこ)即ち平面的には三者密合し重り合ひ、距離は絶対なく、渾然(こんぜん)と一丸になって中空に浮んでゐるのが地球である。勿論三者夫々(それぞれ)の性能と運動状態は異ってゐる。即ち火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れ地は不動体となってゐるが、之は絶対ではなく、呼吸運動による動体中の不動体である。そうして経(たて)と緯(よこ)とは超微粒子の綾状的気流となって、地球を中心として貫流し、運動してゐるのである。そうして此(この)気流なるものは空の如く無の如くである為、現在の学問程度では到底把握出来ないのである。然(しか)るに意外にも此(この)気体其(その)ものこそ、実は一切万有の力の根原であって、其(その)本質に至っては実に幽幻霊妙想像に絶するものである。仏者のいふ覚者とは此(この)一部を知り得た人間を言ったもので、それ以上になった者が大覚者であり、一層徹底した大覚者が見真実の境地に到達したのである。釈迦、キリストは此(この)部類に属するのであるが、只(ただ)併(しか)し此(この)二聖者は時期尚早の為、或(ある)程度以上の力を附与されなかった事である。それが為救世的力の不足はどうしやうもなかった。其(その)証拠として両聖者は固(もと)より、其(その)流れを汲んだ幾多覚者達の努力によっても、今以(もっ)て人類の苦悩は解決されないに見て明かである。処が愈々(いよいよ)天の時来って絶対力を与へられ、其(その)行使による人類救済の大使命を帯びて出顕したのが私である以上、私によって真理の深奥を説き、人類最後の救ひを実行すると共に、新文明世界設計に就(つい)ての指導的役割をも併せ行ふのであるから、実に全人類に対する空前絶後の一大福音(ふくいん)である。
 茲(ここ)で話は戻るが、前記の如き物質偏重の文化を見真実の眼を以(もっ)て、大局から検討してみる時、意外にもそれによって今日の如き絢爛(けんらん)たる文化が発生し、進歩しつつあったのであるから、此(この)矛盾こそ実に神秘極まるものであって、之こそ神の経綸に外(ほか)ならないのである。之を一言にしていえば、現在迄の文明は前記の如く体的面は成功したが、霊的面は失敗した事である。では何が故(ゆえ)に神は最初から失敗のない完全な文明を創造されなかったかといふと、此(この)疑問こそ此(この)著を順次精読するに従ひ、初めて判然と理解されるのである。


 天国建設の順序と悪の追放

 抑々(そもそも)此(この)世界を天国化するに就(つい)ては、一つの根本条件がある。それは何かといふと、現在大部分の人類が心中深く蔵(かく)されてゐる悪の追放である。それに就(つい)て不可解な事には、一般人の常識からいっても悪を不可とし、悪に触れる事を避けるのは勿論、倫理、道徳等を作って悪を戒め、教育も之を主眼としてをり、宗教に於(おい)ても善を勧め、悪を排斥してゐる。其(その)他社会何(いず)れの方面を見ても、親が子を、夫は妻を、妻は夫を、主人は部下の悪を咎(とが)め戒めてゐる。法律も亦(また)刑罰を以(もっ)て悪を犯さぬやうにしてゐる等、之程の努力を払ってゐるに拘(かか)はらず、事実世界は善人より悪人の方が多く、厳密に言へば十人中九人迄が、大なり小なりの悪人で、善人は一人あるかなしかといふのが現実であらう。
 併(しか)し乍(なが)ら単に悪人といっても、それには大中小様々な種類がある。例へば一は心からの悪、即ち意識的に行ふ悪、二は不知(しらず)不識(しらず)無意識に行ふ悪、三は無智故(ゆえ)の悪、四は悪を善と信じて行ふ悪等である。之等に就(つい)て簡単に説明してみると斯(こ)うであらう。一は論外で説明の要はないが、二は一番多い一般的のものであり、三は民族的には野蛮人、個人的には白痴、狂人、児童等であるから問題とはならないが、四に至っては悪を善と信じて行ふ以上正々堂々として而(しか)も熱烈であるから、其(その)害毒も大きい訳である。之に就(つい)ては最後に詳しくかく事として、次に善から見た悪の世界観をかいてみよう。
 前記の如く現在の世界を大観すると、全く悪の世界といってもいい程で、何よりも昔から善人が悪人に苦しめられる例は幾らでも聞くが、悪人が善人に苦しめられる話は聞いた事がない。此(この)様に悪人には味方が多く、善人には味方が少ないので、悪人は法網を潜(くぐ)り、堂々世の中を横行闊歩(かっぽ)するに反し、善人は小さくなって戦々(せんせん)兢々(きょうきょう)としてゐるのが社会の姿である。此(この)様に弱者である善人は、強者である悪人から常に虐(しいた)げられ、苦しめられるので、此(この)不合理に反抗して生れたのが彼(か)の民主々義であるから、之も自然発生のものである。処が日本に於(おい)ては長い間の封建思想の為、弱肉強食的社会が続いて来たのであるが、幸ひにも外国の力を借りて、今日の如く民主々義となったので、自然発生と言うよりも、自然の結果といった方がよからう。といふやうに此(この)一事だけは、珍らしくも悪に対して善が勝利を得た例である。併(しか)し外国と異って日本は今の処生温(なまぬる)い民主々義で、まだまだ色々な面に封建の滓(かす)が残ってゐると見るのは私ばかりではあるまい。
 茲(ここ)で悪と文化の関係に就(つい)てかいてみるが、抑々(そもそも)文化なるものの発生原理は何処(どこ)にあったかといふと、根本は善悪の闘争である。それは古(いにし)への野蛮未開時代からの歴史を見れば分る通り、最初強者が弱者を苦しめ、自由を奪ひ、掠奪殺人等恣(ほし)いままに振舞ふ結果、弱者にあってはそれを防止せんとして種々の防禦法(ぼうぎょほう)を考へた。武器は固(もと)より垣を作り、備へをし、交通を便にする等、集団的にも個人的にも、凡(あら)ゆる工夫を凝(こ)らしたのであって、此(この)事が如何(いか)に文化を進めるに役立ったかは言う迄もない。それから漸次(ぜんじ)進んで人智は発達し、文字の如きものも生れ、集団的契約を結ぶやうになったが、今日の国際条約の嚆矢(こうし)であらう。尚(なお)社会的には悪を制圧するに法や罰則を作り、之が条文化したものが今日の法律であらう。処が現実はそんな生易しい事では、人間から悪を除く事は到底出来なかった。寧(むし)ろ人智の進むにつれて悪の手段が益々巧妙になるばかりである。といふやうに人類は原始時代から悪の横行とそれを防止する善との闘争は絶へる事なく今日に至ったのである。然(しか)しそれによって如何(いか)に人智が進み文化が発達したかは知る通りであって其(その)為の犠牲も亦(また)少なくなかったのは亦(また)止むを得ないといふべく、兎(と)に角(かく)現在迄は善悪闘争時代が続いて来たのである。処がそれら善人の悩みを幾分でも緩和すべく、時々現はれたのが彼(か)の宗教的偉人で、其(その)教の建前としては物欲を制限し、諦観(ていかん)思想を本位とし、従順を諭(おし)へると共に、将来に希望を有(も)たせるべく地上天国、ミロクの世等の理想世界実現を予言したのである。又一方悪に対しては極力因果の理を説き、速(すみや)かに悔(く)ひ改めるべく戒めたのは勿論で、それが為幾多の苦難に遭ひ、血の滲むやうな暴圧に堪へつつ教へを弘通(ぐつう)した事蹟は、涙なくしては読まれないものがある。成程之によって相当の効果は挙げたが、然(しか)し大勢はどうする事も出来なかった。又反対側である無神主義者の方でも学問を作り、唯物的方法を以(もっ)て悪による災害を防ごうとして努力した。其(その)結果科学は益々進歩し、文化は予期以上の成果を挙げたのである。然(しか)るに一方思はざる障碍(しょうがい)が生れたといふのは、右の如く進歩した科学を悪の方でも利用するやうになった事である。
 先(ま)づ戦争を見ても判る通り、兵器は益々進歩すると共に、凡(すべ)てが大規模になりつつある結果生れたのが彼(か)の原子爆弾である。之こそ全く夢想だもしなかった恐怖の結晶であるから、此(この)発見を知った誰もは、愈々(いよいよ)戦争終焉(しゅうえん)の時が来たと喜んだのも束(つか)の間(ま)、之を悪の方でも利用する危険が生じて来たので、不安は寧(むし)ろ増大したといってもいい。とはいふものの結局戦争不可能の時代の接近した事も確かであらう。之等を深く考えてみる時結局悪が戦争を作り、悪が戦争を終結させるといふ奇妙な結果となったのである。斯(こ)う見てくると、善も悪も全く深遠なる神の経綸に外(ほか)ならなかった事はよく窺(うかが)はれる。そうして精神文化の側にある人も、物質文化の側にある人も、心からの悪人は別とし、共に平和幸福なる理想世界を念願してゐるのは言う迄もないが、只(ただ)問題は果して其(その)実現の可能性がありやといふ事と、ありとすれば其(その)時期である。処がそれらに就(つい)ての何等の見通しもつかない為、人類の悩みは深くなるばかりである。そこで心ある者は怪疑の雲に閉されつつ、突当った壁を見詰めてゐるばかりであるし、中には宗教に求める者、哲学で此(この)謎を解こうとする者などもあるが、大部分は科学の進歩によってのみ達成するものと信じ努力してゐるが、之も確実な期待は得られそうもないので、行詰り状態になってゐる。処が現実を見れば人類は相変らず病貧争の三大災厄の中に喘(あえ)ぎ苦しみ乍(なが)ら日々を送ってゐる。処が之等一切の根本を神示によって知り得た私は、凡(あら)ゆる文化の誤謬(ごびゅう)を是正すべく解説するのである。
 前記の如く悪なるものが、人間の不幸を作るとしたら、神は何故悪を作られたかといふ疑問である。然(しか)し此(この)様な不可解極まる難問題は、到底人智では窺(うかが)ひ知る由もないから、諦めるより致し方ないとして、宗教は固(もと)より如何(いか)なる学問も、今日迄之に触れなかったのであらう。然(しか)し何といっても之が明かにならない限り、真の文明は成立される筈(はず)はないのである。そこで之から其(その)根本義を開示してみるが、実は現在迄の世界に於ては悪の存在が必要であったので、此(この)事こそ今日迄の世界の謎でしかなかったのである。そうして悪の中で最も人間の脅威とされてゐたものは、何といっても生命の問題としての戦争と病気の二大災厄であらう。そこで先(ま)づ戦争からかいてみるが、戦争が多数の人命を奪ひ、悲惨極まるものであるのは今更言う迄もないが、此(この)災厄から免(まぬが)れやうとして、人間はあらん限りの智能を絞り努力を払って来た事によって、思ひもつかない文化の発達は促進されたのである。見よ勝った国でも負けた国でも、戦争後の目覚ましい発展振りは如何(いか)なる国でも例外はあるまい。仮に若(も)し最初から戦争がないとしたら、文化は今以(もっ)て未開のままか、さもなくば僅(わず)かの進歩しか見られなかったであらう。そのやうにして戦争と平和は糾(あざな)える繩の如くにして、一歩一歩進んで来たのが現在迄の文化の推移である。之が又社会事情にも人間の運命にも共通してゐる処に面白味がある。之によって之をみれば善悪の摩擦相剋(そうこく)こそ、実は進歩の段階である。
 斯(こ)うみてくると、今日迄は悪も大きな役割をして来た訳になる。といっても悪の期間は無限ではなく限度がある。それは世界の主宰者たる主神の意図であり、哲学的に言へば絶対者とそうして宇宙意志である。即ちキリストが予言された世界の終末であり、そうして次に来(きた)るべき時代こそ、人類待望の天国世界であり、病貧争絶無の真善美の世界、ミロクの世等名は異るが意味は一つで、帰(き)する処善の勝った世界である。此(この)様な素晴しい世界を作るとしたら、それ相応の準備が必要である。準備とは精神物質共に、右の世界を形成するに足るだけの条件の揃(そろ)ふ事である。処が神は其(その)順序として物質面を先にされたのである。といふのは精神面の方は時を要せず、一挙に引上げられるからで、それに反し物質面の方はそう容易ではない。非常に歳月を要すると共に、其(その)為には何よりも神の実在を無視させる事である。之によって人間の想念は自然物質面に向く。茲(ここ)に無神論が生れたのである。故(ゆえ)に無神論こそ実は悪を作る為の必要な思想であったのである。斯(か)くして悪が生れ、漸次(ぜんじ)勢を得て善を苦しめ争闘を起し、人類をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は這上(はいあが)らうとして足搔(あが)くのは勿論、発奮努力によって苦境から脱(のが)れやうとした。それが文化発展に拍車を掛けたのであるから、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。
 以上によって善悪に就(つい)ての根本義は大体分ったであらうが、愈々(いよいよ)茲(ここ)に悪追放の時が来たので、それは善悪切替の境目(さかいめ)であるから、悪にとっては容易ならぬ事態となったのである。右は臆測でも希望でも推理でもない。世界経綸の神のプログラムの現はれであるから、信ずると信ぜざるとに拘はらず、右は人類の決定的運命であって、悪の輪止(りんどま)りであり、悪が自由にして来た文化は、一転して善の手に帰(き)する事となり、茲(ここ)に地上天国樹立の段階に入ったのである。


 悪と守護霊

 前項の如く、現在迄必要であった悪が、不必要になったとしても、そう容易(たやす)く追放される訳にはゆかないが、それに就(つい)ての神の経綸は寔(まこと)に幽玄微妙なるものがある。之は追々説いてゆくが、茲(ここ)で前以(もっ)て知らねばならない事は、抑々(そもそも)宇宙の構成である。言う迄もなく宇宙の中心には太陽、月球、地球の三塊が浮在してゐる。そこで此(この)三塊の元素を説明してみると、太陽は火素、月球は水素、地球は窒素といふやうになってをり、此(この)三元素は勿論各々(おのおの)の特質を有(も)ち、夫々(それぞれ)の本能を発揮してゐるが、右の中(うち)の火素、水素の二精気が密合して大気となり、地球を囲繞(いにょう)しつつ、一切万有の生成化育を営んでゐるのである。
 そうして地球上のあり方であるが、之は陰と陽に別けられてゐる。即ち陽は火の精、陰は水の精であって、火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れてをり、此(この)経緯(たてよこ)が綾状となって運動してゐる。此(この)状態こそ想像もつかない程の超微粒線の交錯であって地上或(ある)程度の高さに迄達してをり、之が空気の層であり、大気でもある。右の如く陽と陰との本質が具体化して、火水、熱冷、昼夜、明暗、霊体、男女等々に表はれてゐるのである。又之を善悪に分ければ陽は霊で善であり、陰は体で悪である。此(この)意味に於て善も悪も対照的のものであって、之が大自然の基本的様相である。
 此(この)理は人間を見ても分る如く、人体は見ゆる肉体と、見へざる霊の二元素から成立ってをり、体と霊とは密接不離の関係にあって、人間が生命を保持してゐるのも此(この)両者の結合から生れた生命力によるのである。処が茲(ここ)に一つの法則がある。それは霊が主で体が従であって、之は事実がよく示してゐる。即ち人間霊の中心である心に意欲が起るや、体に命令し行為に移るのであるから、霊こそ人間の本体であり、支配者であるのは明かである。そこで霊は何が故(ゆえ)に悪心を起すかといふと、之が最も重要なる焦点であるから詳しくかいてみるが、それにはどうしても宗教的に説かねばならないから、其(その)つもりで読まれたい。といふのは善悪は心の問題であるからである。
 偖(さ)て愈々(いよいよ)本論に移るが、右の如く人間は霊と体との両者で成立ってゐる以上、肉体のみを対象として出来た科学では、如何(いか)に進歩したといっても畢竟(ひっきょう)一方的跛行(はこう)的であってみれば、真の科学は生れる筈(はず)はないのは分り切った話である。之に反し吾々の方は霊体両者の関係を基本として成立ったものである以上、之こそ真の科学でなくて何であらう。
 以上の如く善悪なるものは心即ち霊が元であり、而(しか)も霊主体従の法則を真理として、之から解き進める説を充分玩味(がんみ)するに於ては、根本から分る筈(はず)である。処で先(ま)づ人間といふものの発生であるが、言う迄もなく姙娠である。之を唯物的にいへば男性の精虫一個が、女性の卵巣に飛込んで胚胎(はいたい)する。之を霊的に言へば神の分霊が一個の魂となって宿るのである。そうして月満ちてオギャーと生れるや右の魂以外別に二つの魂が接近し、茲(ここ)に三つの魂の関係が結ばれる。右の二つの魂とは一は副守護霊といって動物霊であり、多くは二、三才の頃に憑依(ひょうい)する。今一つは正守護霊といって直接憑依(ひょうい)はしないが、絶へず身辺に着き添ひ守護の役をする。勿論右の二霊共一生を通じて離れる事はないから、言はば人間は三者共同体といってもいい。其(その)様な訳で第一に宿った魂こそ本守護霊と言ひ、神性そのものであり、之こそ良心でもある。昔から人の性は善なりといふのは之を指すのである。第二の副守護霊とは右と反対で悪そのものであるから、常に本守護霊の善と闘ってゐるのは誰も自分の肚の中を思へば分る筈(はず)である。第三の正守護霊とは祖霊中から選抜されたものであって、不断に其(その)人の身辺に附添ひ、守護の役目をしてゐる。例へば災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、凡(すべ)て其(その)人を不幸に導く原因を防止する。よく虫が知らせる、夢知らせ、邪魔が入る、食違ひ、間(ま)が悪いなどといふのがそれである。又何かの事情で汽車に乗遅れた為、危難を免(まぬが)れる事などもそれであり、悪に接近しやうとすると故障が起き、不可能になったりするのもそれである。そうして本霊と副霊とは常に闘ってをり、本霊が勝てば善を行ふが、副霊が勝てば悪を行ふ事になるから、人間は神と動物との中間性であって、向上すれば神の如く、堕落すれば獣の如くになるのは世間を見てもよく分るであらう。では一体副霊とは何の霊かといふと、日本人は男性にあっては天狗、蛇、狸、馬、犬、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、其(その)他種々の霊もあり、女性にあっては狐、蛇、猫、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、他にも色々な霊があり、又此(この)副守護霊以外臨時に憑(つ)く霊もある。斯(こ)んな事をいふと現代人は馬鹿々々しくて到底信じられまいが、之は一点の誤りなき真実であって、之が信じられないのは其(その)人は唯物迷信の為であるから此(この)迷信を一擲(いってき)すれば直(じき)に判るのである。何よりも人間は其(その)憑(つ)いてゐる動物霊の性質がよく表はれてゐるもので、注意すれば何人にも分る筈(はず)である。
 右の如く臨時に憑(つ)く霊も、殆(ほと)んどは動物霊であって、偶(たま)には人間の死霊(しりょう)もあり、極く稀(まれ)には生霊(いきりょう)もある。では臨時霊が憑(つ)く理由は何かといふと、言う迄もなく其(その)人の霊の清濁(せいだく)によるので、曇りの多い程悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く、又元からの副霊の力も増すから、どうしても悪い事をするやうになる。此(この)理によって現代人の大部分は霊が曇り切ってゐるから、悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く活動し易い為、犯罪が増へるのである。処がそれとは反対に神仏の信仰者は曇りが少なく、善行を好むのは魂が清まってをり、悪霊(あくりょう)を制圧する力が強いからで、茲(ここ)に信仰の価値があるのである。従って無信仰者は平常善人らしく見へても、何時(いつ)悪霊(あくりょう)が憑依(ひょうい)するか分らない状態にあるので、一種の危険人物といってもいい訳である。此(この)理によってより良き社会を実現するには、清い魂の持主を増やすより外(ほか)に道はないのである。そうして本来魂なるものは一種の発光体であって、動物霊は此(この)光を最も怖れるのである。処が現代人の殆(ほと)んどは魂が曇ってをり、動物霊といふ御客様は洵(まこと)に入りいいやうになってゐるから、忽(たちま)ち人間は躍(おど)らせられるので、百鬼(ひゃっき)夜行(やぎょう)の社会状態になってゐるのも当然である。而(しか)も其(その)様な事に盲目である為政者(いせいしゃ)は、只(ただ)法と刑罰のみによって悪を防止しやうとしてゐるのであるから、全然的(まと)を外(はず)した膏薬(こうやく)張で効果の挙がる筈(はず)がないのである。何よりも国会を見ても分る如く、殆(ほと)んどの議案は法律改正と追加といふ膏薬(こうやく)製造法であるから、之を常に見せつけられる吾々は、其(その)無智に長大息(ちょうたいそく)を禁じ得ないのである。
 以上の如く悪なるものは大体判ったであらうが、此(この)根本解決こそ信仰以外にない事は言うまでもない。併(しか)し単に信仰といっても其(その)拝む的(まと)である神にも上中下の階級があり、それが百八十一級にも及んでゐると共に、正神と邪神との差別もあるから、之を見別けるには相当困難が伴ふのである。世間よく熱烈な信仰を捧げても思うやうな御利益がなく、病気も治らず、行ひも面白くない人があるが、それは其(その)的(まと)である神の力が弱く、邪神の活躍を阻止する事が出来ないからである。而(しか)も困る事には此(この)状態を見る世人は、之こそ低級な迷信と思ひ、偶々(たまたま)本教の如き正しい宗教を見てもそれと同一視するのであるから実に遺憾に堪へないのである。そうして昔から一般人は神とさへ言へば、只(ただ)尊いもの有難いものと決めて了(しま)ひ、差別のあるなど知らない為、甚だ危険でもあった。尤(もっと)も今日迄最高神の宗教は全然現はれなかったからでもあるが、喜ぶべし茲(ここ)に最高神は顕現され給ふたのである。
 それが為今日迄の神は仮(たと)へ正しく共次位の階級であるから、其(その)力が弱く正邪相争ふ場合一時的ではあるが悪の方が勝つので、之を見る人々はそれに憧(あこが)れ、真似しやうとする。特に野心あり力量ある者程そうであるのは、歴史を見ても分る通り、幾多英雄豪傑の足跡である。成程一時は成功しても最後は必ず失敗するのは例外がないのである。之を霊的にみると其(その)悉(ことごと)くは邪神界の大物の憑依(ひょうい)であって面白い事には最初はトントン拍子にゆくので有頂天になるが、それも或(ある)程度迄で必ず挫折する。そうなると憑依(ひょうい)霊は忽(たちま)ち脱却して了(しま)ふ。吾々の知る範囲内でもカイゼル、ムッソリーニ、ヒットラーの如きがそうで、失敗後は人が違ふかと思ふ程痴呆暗愚的(ちほうあんぐてき)に気の抜けたやうになったが、之は大きな邪霊が抜けた後は誰でもそうなるものである。そうして驚くべき事は邪神界の総頭領は、今から二千数百年前、世界の覇権を握るべく、周到綿密にして永遠な計画を立て、現在迄暗躍を続けつつあるが、正神界の方でも之に対立し戦ってゐるのである。其(その)神としてはキリスト、釈迦、マホメット、国常立尊の系統の神である。
 以上の如く主神は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、其(その)結果遂に邪神の方が九分九厘迄勝ったのが現在であって、茲(ここ)に主神は愈々(いよいよ)一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給ふ、之が九分九厘と一厘の闘ひであって、今や其(その)一歩手前に迄来たのである。従って此(この)真相を把握されたとしたら、何人と雖(いえど)も飜然(ほんぜん)と目覚めない訳にはゆかないであらう。

 悪の発生と病

 前項の如く悪の九分九厘に対して、善の一厘が現はれ、絶対神力を揮(ふる)って既成文化を是正すると共に、新文化を打ち樹(た)てる。早くいえば掌(てのひら)を反(か)えすのである。之が今後に於ける神の経綸の骨子であって、其(その)破天荒的企図は想像に絶するといってよかろう。之に就(つい)ては彼(か)の旧約聖書創生記中にある禁断の木の実の寓話(ぐうわ)である。勿論之は比喩(ひゆ)であって、エデンの園にゐたアダムとイブの物語は、実に深遠なる神の謎が秘められてゐる。それを追々説いてゆくが、之を読むに就(つい)ては全然白紙にならなければ、到底分りやうがないのである。言う迄もなく木の実を食ふ事によって悪の発生である。といふのは木の実とは薬の事であって、薬によって病気が作られ、病気によって悪が発生する。処が人類は紀元以前から、病気を治す目的として使ひ始めたのが彼(か)の薬剤であって、禁断の木の実とは、何ぞ知らん此(この)薬剤を曰(い)ったものである。といふ訳を知ったなら何人も愕然(がくぜん)として驚かない者はあるまい。ではそのやうな到底想像もつかない程の理由は何かといふと、之を説くとしたら理論と実際から徹底的に説かねばならないから、充分活眼を開いて見られん事である。
 茲(ここ)で曩(さき)に説いた如く、人間は霊と体とから成立ってをり、霊が主で体が従であるといふ原則も已(すで)に判ったであらうが、そのやうに悪の発生原は霊に発生した曇りであり、此(この)曇りに元から憑依(ひょうい)してゐた動物霊と、後から憑依(ひょうい)した動物霊と相俟(あいま)って、人間は動物的行為をさせられる。それが悪の行為である。早く言えば霊の曇り即悪である以上、悪を撲滅するには霊の曇りの解消である事は言う迄もない。処が曇りの因(もと)こそ薬剤であるから茲(ここ)に大きな問題がある。勿論霊の曇りは濁血の移写で、濁血は薬剤が造るのであるから、人間薬剤さへ用ひなくなれば悪は発生しないのである。斯(こ)う判ってくると禁断の木の実、即ち薬剤こそ悪発生の根本である事が分るであらう。
 茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならないが、之も曩(さき)に説いた如く文化の進歩促進の為の悪を作った薬は、他にも大きな役目をして来た事である。といふのは血液の濁(にご)りを排除すべき自然浄化作用である。勿論曇りが溜ると健康に影響し、人間本来の活動に支障を及ぼすからである。処が人智未発達の為、右の浄化作用による苦痛をマイナスに解して了(しま)ひ病気の苦痛を免(まぬが)れやうとし、薬を用ひはじめたのである。といふのは浄化作用停止には身体を弱らせる事であって、弱れば浄化作用も弱るから、それだけ苦痛は緩和される。それを病気が治る作用と錯覚したのである。といふ訳で抑々(そもそも)此(この)誤りこそ、今日の如き苦悩に満ちた地獄世界を作った根本原因である。
 右によってみても、薬といふものは其(その)毒によって単に痛苦を軽減するだけのもので、治す力は聊(いささ)かもない処か、其(その)毒が病気の原因となるのであるから、其(その)無智なる言うべき言葉はないのである。処が驚くべし此(この)病気に対する盲目は、実は深い神の意図があったのである。それを之から詳しくかいてみるが、先(ま)づ文化を発展させる上には二つの方法があった。其(その)一は曩(さき)に説いた如く悪を作って善と闘はす事と、今一つは人間の健康を弱らす事である。前者は已(すで)に説いたから省くとして、後者に就(つい)て説明してみれば、先(ま)づ原始時代からの人間の歴史をみれば分る如く、最初はありのままの自然生活であって、衣食住に対しても殆(ほと)んど獣と同様で、健康も体力もそうであったから常に山野を馳駆し、猛獣毒蛇やあらゆる動物と闘ったのは勿論で、之がその時代に於ける人間生活の全部といってもいいのである。そのように獣的暴力的であった行動は漸次(ぜんじ)其(その)必要がなくなるに従ひ、今度は人間と人間との闘争が始まったと共に、漸次(ぜんじ)激しくなったのであるが、それらによって人智は大いに発達すると共に、長い年代を経て遂に文化を作り出すまでになったのである。このやうな訳で若(も)し最初から闘争がなく平穏無事な生活としたら、人類は原始時代のままか幾分進歩した程度で、智識の発達は少なく、相変らず未開人的生活に甘んじてゐたであらう事は想像されるのである。
 処が前記の如く禁断の木の実を食った事によって病が作られ悪が作られたのである。処が今日迄全然それに気が付かない為、今日の如く根強い薬剤迷信に陥ったのであるから、最も大きな過誤を続けて来たのである。而(しか)も一面原始人的健康であった人間は、前記の如く動物を征服し、生活の安全を得るに従ひ体力も弱ったと共に、智識は進んだので茲(ここ)に平坦な道を作り、馬や牛に車を牽(ひ)かせて歩行せずとも移動出来るやうになったのである。右は日本であるが、外国に於ては石炭を焚(た)き、レールの上を走る汽車を考え出し、一層進んで現在の如き自動車、飛行機の如き素晴しい便利な交通機関を作り出すと共に、他面電気ラヂオ等の機械を作る事になったのである。尚(なお)又人間の不幸をより減らすべく社会の組織機構は固(もと)より、政治、経済、教育、道徳、芸術等、凡(あら)ゆる文化面に亘(わた)って学問を進歩させ巧妙な機関施設等を作り、それが進歩発達して、現在の如き文明社会を作ったのであるから、帰(き)する処来(きた)るべき地上天国樹立の為の準備に外(ほか)ならなかったのである。
 以上の如く医学の根本は、人間の悪を作り健康を弱らす目的にあるので、予期の如く現在の如き世界が出来たのである。処が之以上進むとしたら、逆に人類破滅の危険に迄晒(さら)されるので、最早(もはや)之以上の進歩は不可とし、茲(ここ)に神は文明の大転換を行はんが為、私に対し真理を開示されたのであるから、之によって悪を或(ある)程度制約し、善主悪従の文明世界樹立の時となったのである。

 健康と寿命

 私は之から医学を全面的に批判解剖してみるが、其(その)前に健康と寿命に就(つい)てもかかねばならないが、現代医学が真の医術であるとすれば、病人は年々減ってゆかなければならない筈(はず)であり、それと共に寿命も漸次(ぜんじ)延びてゆかなければならない道理であるばかりか、そうなる迄に数百年で充分であるのは勿論、現在最も難問題とされてゐる結核も伝染病も全滅するし、病気の苦しみなどは昔の夢物語になって了(しま)ふであらう。処が事実は全然其(その)反対ではないか。としたら真の医学でない事は余りにも明かである。
 そうして次の人間の寿命であるが、之も造物主が人間を造った時は、寿命もハッキリ決めた事である。尤(もっと)も之に就(つい)ても私は神様から示されてゐるが、最低百二十歳から、最高は六百歳は可能といふ事である。従って人間が間違った事さへしなければ、百二十歳は普通であるから、そうなったとしたら実に希望多い人生ではないか。而(しか)も只(ただ)長命だけではなく一生の間潑剌(はつらつ)たる健康で、病気の不安などは消滅するのであるから、全く此(この)世の天国である。では右の如き間違った点は何かといふと之こそ驚くべし医学の為である。といったら何人も愕然(がくぜん)とするであらうが、此(この)百二十歳説に就(つい)て、最も分り易い譬(たと)えでかいてみるが、先(ま)づ人間の寿命を春夏秋冬の四季に分けてみるのである。すると春は一、二、三月の三月(みつき)として、一月の元旦が誕生日となり、一月は幼児から児童までで、二月が少年期で、梅の咲く頃が青年期であって、今や桜が咲かんとする頃が青年期で、それが済んで愈々(いよいよ)一人前となり、社会へ乗出す。之が花咲く頃であらう。次で四月桜の真盛りとなって、人々の浮き浮きする頃が、四十歳頃の活動の最盛期であらう。よく四十二の厄年といふのは花に嵐の譬(たと)え通り、花が散るのである。次で五、六、七月は新緑から青葉の繁る夏の季節で、木の実はたわわに枝に実るが、それを過ぎて気候も下り坂になって、愈々(いよいよ)稔りの秋となり、之から収穫が始まる。人間もそれと同じやうに、此(この)頃は長い間の労苦が実を結び、仕事も一段落となり、社会的信用も出来ると共に、子や孫なども増へ、人生最後の楽しい時期となる。そうして種々の経験や信用もあり、それを生かして世の為人の為出来るだけ徳を施す事になるのである。それが十年として九十歳になるから、それ以後は冬の季節となるから、静かに風月などを楽しみ、余生を送ればいいのである。然(しか)し人によっては活動を好み、死ぬ迄働くのも之亦(また)結構である。
 以上によってみても、四季と寿齢とはよく合ってゐる。此(この)見方が最も百二十歳説の裏付けとして好適であらう。此(この)理によって医療が無くなるとすれば、右の如く百二十歳迄生きるのは、何等不思議はないのである。処が単に医療といっても種々の方法があるが、二十世紀以前迄は殆(ほと)んど薬剤が主となってゐたので、長い間に薬剤で沢山の病気を作って来たのである。何しろ薬で病気を作り、薬で治そうとするのだから、病気の増へるのも当然であると共に、寿齢の低下も同様である。此(この)何よりの証左として、医学が進歩するとすれば病気の種類が少なくなりそうなものだが、反対に増へるのは、薬の種類が増へるのと正比例してゐるのである。今一つ人々の気の付かない重要事がある。それは医学で病気が治るものなら、医師も其(その)家族の健康も、一般人より優良でなければならない筈(はず)であるのに、事実は寧(むし)ろ一般人より低下してゐる。何よりも種々の博士中医学博士が一番短命だそうだし、又医師の家族の弱い事と、結核の多い事も世間衆知の通りである。そうして現在の死亡の原因は突発事故を除いて悉(ことごと)くは病気である。而(しか)も病死の場合の苦しみは大変なもので、之は今更言う必要もないが、よく余り苦しいので、一思ひに殺して呉(く)れなどの悲鳴の話をよく聞くが、では此(この)様な苦しみは何が為かといふと、全く寿命が来ない内死ぬからで、中途から無理に枝を折るようなものであるからで、恰度(ちょうど)木の葉が枯れて落ち、青草が枯れて萎(しお)れる。稲が稔って穫入(とりい)れるのが自然であるのに青い内に葉をむしり、青い草を引抜き、稲の稔らないのに刈込むと同様で、不自然極まるからである。というやうにどうしても自然死でなくてはならない。然(しか)し近代人は弱くなってゐるから、自然死といっても九十歳から百歳位が止まりであらう。
 以上説いた如く、神は人間に百二十歳以上の寿命を与へ、病気の苦しみなどはなく、無病息災で活動するやうに作ってあるのを、愚かなる人間はそれを間違へ、反(かえ)って病苦と短命を作ったのであるから、其(その)無智なる、哀れと言っても云(い)い足りない位である。

 救ひ主と贖罪(しょくざい)主

 私は之迄悪に就(つい)ての根本理論として、悪が必要であった事、悪によって今日の如き文化の進歩発展を見た事をかいて来たが、茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならない。それは有史以来今日迄幾多の宗教が生れ、其(その)説く処は例外なく善を勧め、悪を極力排斥したのであった。勿論之は悪其(その)ものを除くのが宗教の建前であるから勿論当然であるが、それに就(つい)て私はよく斯(こ)ういふ質問を受けたものである。〝一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍(なが)ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか〟といふのである。成程此(この)質問は尤(もっと)も千万(せんばん)で一言もないが、実をいふと私にしても同様の考へ方であるから、其(その)都度私は斯(こ)う答へる。〝成程それには違ひないが、元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから、何(いず)れ神様はそれに就(つい)ての、根本的理由をお示しになるに違いないから、それ迄待つより仕方がない〟と曰(い)ったものである。
 処が愈々(いよいよ)其(その)時が来たので神は其(その)事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪へないのである。そうして右と同様の疑問を有(も)ってゐる人も多数あるであらうから、之を読んだなら、暗夜に燈火を得た如く豁然(かつぜん)と眼を開くのは勿論であらう。では何故今迄の宗教開祖の悉(ことごと)くが悪を非難したかといふと、曩(さき)にも詳しくかいた如く、或(ある)期間悪が必要であったから其(その)深い意味を主神は知らさなかったのである。従って仮令(たとえ)正神と雖(いえど)も知り得る由はなかったので、正神は何処(どこ)迄も正義のみによって天国世界を作らんとするに反し、邪神は何処(どこ)迄も目的の為手段を撰ばず式で、悪によって野望を遂げんとしたのである。
 処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。それといふのは今迄の各宗開祖は力が足りなかった。其(その)最もいい例としては彼(か)のキリストである。キリスト自身は贖罪(しょくざい)主といったが、救ひ主とは曰(い)はなかった。贖罪(しょくざい)主とは読んで字の如く、罪の贖(あがな)ひ主である。つまり万人(ばんにん)の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦(ゆる)しを乞ふ役目である。早くいえば万人(ばんにん)の代理者であり、赦(ゆる)される側の神で、赦(ゆる)す方の神ではなかった。其(その)為罪の代償として十字架に懸(かか)ったのである。
 此(この)理は仏教に就(つい)てもいえる。彼(か)の釈尊が最初は仏教によって、極楽世界を造るべく数多くの経文を説き、専心教へを垂(た)れたのであるが、どうも予期の如く進展しなかった処へ仏典にもある通り〝吾七十二歳にして見真実を得た〟と曰(い)はれた通り、此(この)時自己の因縁と使命を本当に知ったのである。そこで之迄の誤りを覚り、極楽世界出現は遥かに先の未来である事が分ったので、之迄説いた処の経説には誤謬(ごびゅう)の点少なからずあり、之から説くものこそ真実でありと告白し、説いたのが彼(か)の法滅尽経であり、彌勒出現成就経であり、法華経二十八品(ぼん)であったのである。一言にしていえば釈尊は仏滅即ち仏法は必ず滅するといふ事を知り、其(その)後に至って現世的極楽世界である彌勒の世が来ると曰(い)はれたのは有名な話である。只(ただ)茲(ここ)で時期に就(つい)て注意したい事は、釈尊は五十六億七千万年後ミロクの世が来ると曰(い)はれた。併(しか)しよく考えてみると、いくら釈尊でも其(その)様な途轍(とてつ)もない先の事を予言する筈(はず)はない。第一そんな先の事を予言したとて、何の意味もないではないか。何故ならばそんな遠い時代、地球も人類もどうなってゐるか、到底想像もつかないからである。之は神示によれば五六七の数字を現はす為で、此(この)数字こそ深い意味が秘めてあった。即ち五は日(火)、六は月(水)、七は地(土)であり、之が正しい順序であって、今日迄は六七五の不正な順序であった。之は後に詳しくかく事として、兎(と)に角(かく)キリスト、釈尊の二大聖者と雖(いえど)も、真理は説けなかったのである。何よりも経文(きょうもん)やバイブルにしても明確を欠き、何人と雖(いえど)も到底真理の把握は不可能であったにみて明かである。勿論時期の関係上止むを得なかったのである。
 処が茲(ここ)に主神は深奥なる真理を愈々(いよいよ)開示される事となった。此(この)著に説く処明快にして些(いささ)かの疑点なく、何人も容易に真理を摑み得るのである。そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘迄掌握し、後一厘といふ間際(まぎわ)に来て、意外にも茲(ここ)に一厘の力が現はれ、邪神の謀略を一挙に覆(くつが)へすのである。つまり悪主善従であった世界が、善主悪従となるのである。そうして之を具体的にいえば斯(こ)うである。即ち九分九厘の悪とは現代医学であって、之も曩(さき)にかいた通り必要悪であるから、今迄はそれでよかったのである。然(しか)し其(その)結果として人間の最大貴重な生命を完全に握って了(しま)った。若(も)し医学が誤ってゐるとすれば、生命の危険は言語に絶するといってもいいであらう。之程世界人類から固く信じられてゐる医学を是正するのであるから、容易な業でない事は言う迄もない。

 地上天国

 地上天国とはバイブルから出た言葉であり、仏教ではミロクの世といひ、西洋ではユートピヤなどといふが、勿論意味は同一であって、つまり理想世界である。之が曩(さき)にかいた如く神の目的であるから、現在迄の歴史は其(その)世界を造る過程であったので、幾変遷を経て漸(ようや)く天国の一歩手前に来たのが現在である。此(この)世界を一口にいえば、病貧争絶無の世界である。処が此(この)三大災厄の中の王座を占めてゐるのが病気であるから、病気さえ解決すれば、貧乏も争ひも自ら解消するのは、言を俟(ま)たない処である。
 如上(じょじょう)の意味に於て、私は病気に就(つい)て根本原因を、凡(あら)ゆる面から徹底的に解剖し明かにするのである。而(しか)も之は医学と異って、人智によって生れた学問上の研究理論ではなく、神の啓示を土台とし、実験によって得たる真理であるから、毫末(ごうまつ)も誤りはないのである。そうして実験とは今日迄何万に上る私の弟子が、毎日何十万に上る患者の治療に当ってをり、其(その)治癒率の素晴しい事は、医学の一に対し百といっても、決して過言ではない程である。
 右の如く驚くべき治病の実績が、此(この)地球上に出現したに拘(かか)はらず、全人類は治る力のない医学を無上のものと誤信し、病苦に悩み、長く生きられる生命を中途に挫折して了(しま)ふ其(その)無智悲惨なる現状は、到底黙視出来ないのである。此(この)様な末期的惨状を神として、そう長く放任して置けないのは当然である。といふ理由と来(きた)るべき理想世界の住民としての健康人を作らんが為との二つの理由によって、茲(ここ)に医学の迷盲を発表するのである。