黄泉比良坂

黄泉比良坂の戦

自観叢書第4篇『奇蹟物語』昭和24年10月5日

 この標題について、時々たずねられるから概略解説してみよう。これはもちろん古事記にあるものでそれを如実に私が体験した経緯をかくのである。
 今からちょうど二十年くらい前、ある日青山から明治神宮参道から神宮の入口に向かって二、三丁行ったところのちょうど参道ダラダラ坂の三分の二くらいの 地点で、一番低いところのその横町にその頃某子爵がいた。そこへ私は招かれたのである。その子爵というのは大分落ちぶれて、生活にも窮しているような有様 で、一種の神道的信仰を始めて間もない頃であった。まだ少数の信者で、なかなか経費をまかなう程には行っていないようであった。神様は国常立尊(くにとこ たちのみこと)を中心としていたので、この時私は何か神秘がありそうな気がすると共に、種々信仰談に花を咲かせ、私も相当の援助をすべく約束した。その時霊感によって知り得た事はその家が黄泉比良坂(よもつひらさか)になるという事である。黄泉とは世を持つすなわち天皇である。しかも世を持っていた幕府が倒壊し、それを継承したのが明治天皇であるから、明治神宮の参道は平らな坂で、世もつ平坂という事になる。おもしろい事には右の子爵と懇意になってから互 いに数回の往き来をして、最後には私は彼を晩餐に招いたので夫婦揃って来た。その時土産にもって来たものが、実に神秘極まるもので、子爵の家の宝物となっていたものである。またその時までの間に彼と私と一種の争いが起こった。それははなはだ複雑しているのでここでは略すが、とにかく争いの結果和解の形になったため招いたのであった。
 最初から最後までの経路を考えると、どうしても黄泉比良坂の戦の小さな型であったとしか思えない。しかもその晩戦に勝って、敵は賠償金か貢物のような意味で、右の宝物を持って来たものであろう。
 以上のごとく、最初から最後までの経路を考える時、どうしても黄泉比良坂の戦の型としか思えない。
 その後数年を経た昭和十三年不思議な事があった。その起こりというのはこういう訳だ。私は昭和九年に麹町平河町に信仰的民間治療の営業所を借り、開業したが、それが一年経つか経たない中に非常に発展した結果、宗教専門にすべく、玉川上野毛の今の宝山荘の土地家屋が売物に出たので買入れたのであった。とい うと馬鹿に景気がいいが、実は先方の言い値十万円というのに、私は五千円しか金がないのでどうしようもないが、しかし欲しくて堪らない。売主へありのまま話をすると、おもしろい事には売主は借金だらけで、一日も早く逃げ出したいのであるが、今と違ってその頃は買手がほとんどない。借金取りには責められると いう訳で、とにかく一万円の金を入れてくれればすぐ立退くとの事、後金は分割払でいいというので、私も他から五千円借り都合一万円の金を入れ、昭和十年十 月一日引っ越したのである。
 引っ越したとはいうものの、それからが大変だ。何しろ十万円の買物に一万円しか払ってないので、三月後第二回の払二万数千円を七所(ななところ)借りし てやっと払ったという訳である。ところがその土地家屋は勧銀に担保に入っていたが、右の売主はほとんど年賦金一文も入れなかった。先方はそれを秘密にして いたので、買ってから判ったのである。私もあまりの軽率に後悔したが今更仕方がない。そのうち勧銀は競売の挙に出でた。負債は元利積って五万円くらいあっ たと思う。まず第一回の競売の時、勧銀の指定値は五万五千円で、札の入れ手がなかった。第二回が四万五千円であったが、私としては第三回はもっと安くなる から、その時札を入れようと少し欲張りすぎたのである。ところが思いきや第二回の四万五千円の時入札者が現われたのでそれへ落ちてしまった。その通知を受けた私は愕然としたが、もう取返しがつかない。弁護士に相談すると、競売決定までに一週間あるから、その間に異議の申立をすればいいというので一縷の望み が出来た。ここで奇蹟が起こったのである。それは右の一週間目の期日に弁護士が私の家へ来た帰りがけ某所へ寄った。ところがその人いわく、「岡田さんの競売決定の期日は一週間とすると、今日あたりではないか」との事で弁護士も気がつき、「コレは大変だ、確かに今日が期日だ」という訳で、急速事務所へ帰り、 書類を作り裁判所へ持って行ったが、その晩の十一時であった。後一時間過ぎれば右の不動産は永遠に先方の所有に帰するのである。何と重大な一時間ではない か。本教の基礎を造ったのはこの家であるから、その時失敗したら今の発展はあり得なかったであろう。その時思った事は競売異議申立に要する保証金は相当の 額であったが、奇蹟的に間に合った。もちろん百円札であったから、百はモモと読む、すなわち百円札は桃の実になる。黄泉比良坂の戦いに一旦は破れた神軍 が、伊邪諾尊(いざなぎのみこと)から下されて桃の実を魔軍へぶっつけたので、勝いくさに転換したというその意味であろう


『地上天国』22号、昭和26年3月25日

(お伺)
 「桃の実」と「梅の実」とは霊的にどのような関係にございましょうか。御垂示謹んでお願い申し上げます。

(御垂示)
 梅の実は、花が五弁であるから五行、すなわち木火土金水の意味でもあり、また松竹梅の一つで、めでたい意味でもある。また兄の花といって、百花のうち一番先に咲くので、始めであり、春、すなわち天国の始めでもある。故に散花結実とは、梅のことをいうのである。大本教のお筆先の最初に「三千世界、一度に開く梅の花」ということがある。とにかくその花が散って実るのであるから、非常に神秘なものであるが、いずれもっと詳しく書くつもりである。
 桃の実は、これもなかなか神秘があるもので、昔からの言い伝えに、西王母(せいおうぼ)の園に三千年目に一つ成るという桃の実で非常に尊いものとなされている。その桃の実の力によって、結構な世の中ができるというのである。謡曲の西王母には、桃の実を君に献上するとあるが、この君とは伊邪諾(いざなぎ)伊邪冊(いざなみ)の神様のことである。また桃太郎もこのことで鬼ケ島征伐とは、邪神を退治することで、宝物とは龍宮の乙姫様の持っていた宝である。また、古事記にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の戦いのとき、神軍が危ういので、伊邪諾尊が、桃の実を下されたので、それを投げつけたため、魔軍は敗退したとなっている。これももっと詳しく書きたいが、あまり長くなるから後に譲るとする。


御垂示(S26年9月8日)
「鳥取県に賀露(かろ)神社というのがありますが、そこの霊が出てまいり、その神社には桃の実があります。黄泉比良坂(よもつひらさか)の戦いのとき、桃の実を投げる役目をしていたそうです。すると金毛九尾(きんもうきゅうび)がたくさんの眷族を連れて出て来、賀露神社のほうも軍勢を集めて、最初桃の実を十八 投げても収まらず、三十八投げて、それでも駄目で、五十ずつ二回投げて、それでいくぶん退散したらしいのですが、親玉は浄霊しても祝詞を奏げても、ぜんぜん手に負えません。これに対してはどうしたらよろしいでしょうか」

 それは本当でしょう。本物です。

「淫蕩(いんとう)的で、映画を見てもああいう色目は見たことがありません。舞をまい、唄を歌い、吉備真備(きびのまきび)の袖の下に隠れて入ってきたと言ってました」

 金毛九尾は今だってたいへんな力があります。なぜといって、つまり人間を淫蕩的に堕落させるんです。女ですね。みんな金毛九尾がやっている。ストリッ プ・ガール、パンパン――みんな金毛九尾がやっている。そんなことばかりではない。ほうぼうの妻君にも憑いている。
 金毛九尾の力がなくなったら、五六七の世です。五六七の世になるまではやってます。しかし、だんだん弱ってくるが、まだそうとう力が強い。金毛九尾に絶 対に勝つのは私くらいしかない。他の者は負ける場合がある。しかし負けっきりにはならない。神様の御守護があるから、そう恐れることはない。とにかく、そ うとう力のついた信者の妻君にも、どんどん憑っていきます。

「吉備真備の尊に聞いてみましたら、信者の中にもいると注意されました」

 私の周囲にもそうとうおります。

「吉備真備の霊が見える人に見てもらったら、胴が一廻りくらいだそうです」

 中くらいですね。金毛九尾というのは、黒龍が活躍している。それから赤龍ですね。

「金毛と九尾は種類が違い、金毛は朝鮮から来て、九尾は唐から来た。といっておりますが」

 そんなことはない。

「八面六臂(はちめんろっぴ)といいますが、あれは狐で――」

 狐です。

「賀露神社の上に金毛九尾の祠(ほこら)があり、その前に七五三(しめ縄)があり、御幣(ごへい)が二本あり、それを持ったときピリッときたそうです」

 やっぱり、霊はなにかを道具にすると憑りいいんです。


「金の指輪をいただき、それをもらってから変な気持ちがすると言います。霊の見える人に見せますと、霊的になにか憑依しているらしいとのことで、御神前の脇にお供えして置いてますが」

 良いです。眷族が憑いているんですね。実に活躍しています。ですから、私が今度、神軍戦史というのを書きますが、最初からの戦いなんです。私は始終戦っ ている。霊的の軍人なんです。しかし、ぜんぜん――そういう邪神が無駄かと言うと、そうではない。それが大きな御用をしている。



御光話(S23年7月18日)

――神話やお噺話にはいろいろな意味があるとのことですが、
  (一)黄泉比良坂(よもつひらさか)坂本の桃子の神話、
  (二)桃太郎の鬼征伐、
  (三)須佐之男尊の八岐の大蛇退治、について……

 (一)これは現にあったんです。ヨモツとは世を持つで時の帝王のことであり、比良坂とは平らな坂で明治神宮の参道が平坂になってます。あの横丁に九鬼隆二子爵がいた。そこへ私は二、三度行きましたが、ここで戦争があり、私の家へ子爵夫妻を呼んだとき宮中から下賜の菊の紋の盃を持ってきました。それで戦いは終わったのです。また後に宝山荘時代五島某……これも邪神の働きをした人ですが、これと戦ったとき、九分九厘こっちが敗けたところで六万円の金が手に入りそれを叩きつけて勝ったのですが、黄泉比良坂の戦いは伊弉諾尊から桃の実をもらって敵を討ったという伝説ですが、桃とは百(もも)で、百円札のことだったのです。
 (二)これは私がやっていることです。昭和八年五月五日……この五月五日の日はたいていなにかあるのですが、この日もよそから呼ばれて行ったが、一番先は代議士の小山完造、第二が新山という宮中顧問官、この小山と新山で「おに」となり、第三が東山某、これのヒは消えてこれでオニガシマとなったのです。鬼が島征伐はいまもやってます。いままで乙姫がもっていたすばらしい宝物がそのうち私の手に入るのですが、いまはちょっと発表できない。
 (三)これは事実と思うのです。須佐之男尊には三人あり、これは初代……というとちょっと変ですが、それでしょう。この尊が大蛇を殺し「いけにえ」にされそうだった櫛名田姫(くしなだひめ)を妻にし家を建てた。そのとき立派にできた家を見て「あな清々(すがすが)し」と言ったことから清宮と名づけ、またそのとき詠んだのが「八雲立つ出雲八重垣妻籠(つまごめ)に八重垣つくるその八重垣を」であり、和歌の初めと言われてます。櫛名田姫は言霊から言うと日本になる、大きく言えば土匪という大蛇を征伐して日本を領有したことでしょう。








何か問題が起こる。――正直にすると簡単に解決する。

『御教え集』4号、昭和26年12月15日

昭和二十六年十一月十五日

 霊憑りというのは、私は始終注意していますが、最初は非常に興味があるものでね。私なんかも最初は随分やりましたがね。結局これは、弊害があるんです ね。私は霊憑りをやって懲りた事がある。それから、やらなくなった。それはある青年ですが――大本時代ですが、その男は――店に使っていた――その時分は 商人でしたから、店で使っていた店員なんです。それが、大本教で熱心になり、それで――大本教は鎮魂帰神と言って、こういう格好で、指の先から霊を出す。 浄霊と同じ意味ですがね。それをやっているうちに、色んな霊が憑かるようになった。憑かると面白いから随分やった。そのうちにとうとう精神病になって、鉄 道線路に行って轢かれて死んじゃった。それで、私は神憑りと言うのは、危険なものだ。すべきでない、と。それで、私は止めちゃった。そういう事が、あと 一、二件――頭のおかしくなったのがありましたが、それは治りましたがね。そんな訳だから、霊憑りと言うのは、余程危険なものですね。ところが良い場合も ある。それで私は、霊的研究を段々していくうちに、良い――悪い、いろんな事が解って来ましたから、それで、良いのと悪いのとの区別が判るような知識です ね。霊的知識――それを得られれば、そう危険はないんですが、それまでにはそうとうな修行と経験がいるんですよ。ですから、一般には非常に難しいのと、そ れから霊界が昔と違って来ているので、今はそんな事をしなくても、人を救う事が出来るんですから、全然霊憑りに触れないで、霊憑りはいけないものだと、決 めてやるのが一番安全であるとともに、霊憑りに触れる人はやっぱり発展しないんです。神様が嫌うんです。だから、霊憑りに重きを置かない人は発展するんですね。本当のやり方です。この間も書いた通り、バラモンから出たものですからね。現在、西洋で霊憑りを使ってやりますが、これは科学的なものだからたいし た事はないが、日本の行者とか、日蓮宗とか、精神病が出るんですね。本当のものじゃないからね。そう言う意味を精しく書いて、新聞か雑誌に出そうと思って いるが、これは、今の神懸りに対する根本的な事と、それから大体知っておくべきだけの事を書いてありますがね。

 (御論文「霊憑りについて」のあとの御教え)【栄光 一三三号】

 これについて、書き足りない点があるんですがね。霊視能力というのがありますね。人間は――霊の見える人ですね。始終見える人は狐がついているんですね。だから危ないですね。肝腎な事を正守護神が知らせようとする場合に、ちょっと――パッと見せるんですね。これは本当です。それから、光が見えるのがあ るが、これは差し支えない。よく、人間の姿ですね――そう言うのが見えるのは――始終見えてはいけないですね。必要な時にちょっと見える。それで、神様は ――本当の神様は実に簡単なものです。無駄がないんですね。ですから、人間も本当に信仰が徹底してくると、そういう風になるべきものですね。それは、他愛ない――普通はいくら喋っても、面白くても、うなっても良いですが、肝腎なことは急所急所に触れる。それが神様のやり方です。よく――女に多いですが、のべつまくなくべらべら喋るのがありますが、これは狐が喋るんです。何を喋ったか解らないような――それが良くありますがね。まくし立てて、人に喋らせない ですね。話でも、人に話させないようにするのは狐霊と思って良い。話は聞かなければならないですね。だから昔から「話上手に聞き上手」というのがあります からね。しかし、聞くだけで――感心したり、解ったなと思うと、案外解らない。そこで、一番良いのは、人の話は良く聞いて、隙が出来たら、こっちの話をす る。それからもう一つ受け答えですね。受け答えが満足にできる人は、外国人には案外多いですが、日本人には割合ないですね。受け答え――返事が急所を外れ る人が多いです。聞こうと思う所にぶつからないで――それは聞き手のまずい場合もありますが――私なんか、何か聞いたり話したりしても、それに対する受け 答えが満足な事はめったにないですね。それでその人が頭が良いか悪いか一番分りますね。男には割合多いが――女の方にはまことに申し訳ないが――非常に少 ない。
 それから、話術――術ではないが、話したり聞いたりする処置ですね。これは大いに勉強しなければならない。と言うのは、間ですね。間が非常に肝腎な事で す。先方で――話なら話を聞く事がありますが、中には間髪を入れずに聞くことがあるし、それから順々という事があるし、その――一つの調子ですね。まあ、 芸術みたいなものですね。これは大いに勉強するんですね。どこまでも簡単明瞭に言う。それから急所をつかむんですね。ですから、相手の様子ですね。興が 乗って、耳をそばだててくるか、あるいはたいして――先が聞きたくない――興が乗らない時は止してしまう。それで、趣味とか聞きたいことを洞察してしま う。こういう煩悶があるというのだから、こういう解答をする。この人には、こういう喋り方なら解るだろうとか、インテリならインテリ――普通人なら普通に と、立て別けなければならない。これは大変な芸術なんです。そこで、環境、空気、一人対一人、二、三人と話す時に、多勢に言う場合、土地の習慣あるいは、 一つの色がありますね。九州の地方の人と北海道の人は違いますね。九州は、昔から古い人がいて――なかなか、九州魂というのがありますからね。
 それから、北海道というのは、移民ですからね。移民というのはおかしいが、地付きの人というのが少ない。地付きと言うのはアイヌですが、皆こっちから 渡った人ですからね。そういう人は色がありますからね。東北の人、上方の人、江戸っ子――皆違いますからね。それに対する色んな言い方――やり方がある訳 だからね。そうなると難しくなるが、そんなに難しく考えなくても――そんなのがある訳ですね。
 それから物事を難しく考えてはいけないし、単純に考えてもいけないですね。どうしてかと言うと、考えすぎて結果が悪い事があるんですね。だから出来るだ け単純にですね。私なんかも難しくなる事があるが、ごく単純に考える。そうして、あとは神様に任せるんですね。だから始終気が楽です。人間は気が楽だと良 い考えが浮かぶんです。気が楽でないと、良い考えが浮かぶ余地がないんです。ですから、始終頭の中を空っぽにしておくと、良い考えが浮かびやすいです。
 それから良い考えと言うのは、正守護神がヒントを与えるんです。神様は、人間に直接と言う事はない。正守護神に知らせて、それから来る。ところが頭に一 杯あると知らせても――アンテナが、働きが悪いんです。だから、良い考えが浮かばない。というのは、そういう訳ですね。これは、一種のインスピレーション みたいなものですが――始終、ゆったりした気持ちでね。ところが、色々な心配事や、気にかかる事があると、そうはいかない。ところがやりようによって、そ うではない。私は、昔はよく気になる事が、色々あると、他の事は頭に入らない。ところが段々信仰に入って、そういう事は、神様にお任せしてしまうというと 忘れちゃう。これはそういう癖をつけちゃうんです。一種の修行ですね、よく他の人が、色々な心配事を言うが、私は笑っているので、びっくりしてしまう。普 通の人では、それが出来ませんよ。それについて書いてある。

 (御論文「御任せする」のあとの御教え)【栄光 一三一号】

 それからこれは関連した話ですけれども――嘘ですね。日本人の特徴のように思いますが、日本人は実に嘘をつくんです。嘘をつくのが、意識的に嘘をつくんじゃない。嘘をつくのが習慣になっている。自分で嘘つくのが分らない。それほどに嘘が身についているんですね。色々、人の話を聞いていると、本当に正直に言うのは、おそらくないと言っても良いですね。必ず嘘があるんです。その嘘が――本人は嘘と思わないで、本当だと思っている。その場合に私が、この点が嘘で、これが本当だと言うと――それでも解らない人がありますね。そうすると、こう言う場合に、これが本当で、これが嘘だと言うと、なるほどと言う。簡単な 事を、わざわざ嘘を言ってややこしくする。これは偉い人に多いですね。何か問題が起こる。すると――正直にすると簡単に解決する。それをややこしくしてい る。私に、こういう事を言った人がある。この場合にこう言った方が良いですよと言うが、嘘なんです。そのご忠告通りにやってみると、成績が悪いんです。何 か、そこに――スラスラ行かないんです。それで私は思った通りにやるようにした。思った通りにずばっとやる。すると良い。正直が一番良いですね。正直にし ていると、何も頭に残らないから――気が咎めないから良い考えが浮かぶ。嘘の執着ですね。だから嘘か本当かが、自分ではっきり分れば、そこではっきり標準ができる。頭の居所が上になるんですね。特に信者は、正守護神からいろんな事がある場合に、頭を空っぽにするというのは、嘘をつかないんですね。また、自 分に不純な心がなければ――誠意があれば、いくら本当の事を言っても、いっこう差し支えないんですからね。よく――以前なんか、家内なんかが私に、そんな事を言っちゃいけませんよと言うんです。しかし、私は何でもありのまま言うんです。すると案外先方は好感を持つんですね。私なんか、随分ひどい事を言う事があります。今はそうでもありませんが、以前の――駆け出し時分にですね。はっきり言うんです。すると、先方が怒りそうなもんだが、怒らないで笑い出したりします。この点アメリカは非常に正直だと思いますね。映画を見ても、言葉が書いてあるが、あれを見ると、実に正直で、日本人には見られないようですね。 だから、アメリカ社会が明瞭だというのは、そういう事ですね。もっとも、日本人は封建時代から押さえつけられていたから、はっきり言うと誤解されるからで、これは政治のためですね。以前はすべて曲げなければならない。最初の、「明日の医術」「天国の福音」――「明日の医術」なんか、随分曲げて書いてあ る。ぼやかして書いてある。徹底しないというが、徹底して書けないですね。「天国の福音」になると、余程違っている。この頃になると思いきって書くから、 徹底してますがね。でもまだ、お医者や何かに気兼ねして書いている。今度の「文明の創造」なんかは、全然そんな事なく思った通りに書いてある。世界を相手にするので、ややこしい書き方の必要もないし、それじゃ徹底しないからね。それから、言論の自由からいうと、何ら差し支えないからね。どうせ今に出るから、見るとよく分りますがね。

尉と姥

たらちねの 尉と姥とは桃太郎の 勲はろばろ待ち給ふらむ  
光明世界   S10. 5.21 桃の実 
高砂の 常磐の松の根を浄む 尉と姥とを世人知らまじ
光明世界 3  S10. 5.21 桃の実 
那岐那美の 二尊は尉と姥とならせ 大天地を浄めますかも
光明世界 3  S10. 5.21 桃の実


 桃太郎の神秘と猿・犬・雉、(鬼ケ島征伐と桃之実)

 桃太郎のお供した猿、犬、雉はどう云う意味でしょうか。

 猿は智慧、犬は忠実、雉は迅速に行動する。智に勇を表わしており、桃太郎が戦をするについての三つの要素を言ったものである。
 桃太郎は観音の化身である。支那の伝説では、桃は、西王母の桃の実は三千年に一つなるとしてある。三千年目に優曇華の花が咲き、桃の実がなるという。
 桃の実は神秘で、モモは百、十が十で百で、百とかいてもよい。
 明主様は以前、桃太郎の働きをなされた。清水氏がよくその頃桃太郎の夢をみた。五月五日に病人があり、小山勘蔵、新山顧問官、東島威之吉を訪問した。これが鬼ケ島となり、鬼ケ島退治遊ばした事になる。
 黄泉比良坂戦で、神様の方が敗けて逃げた時、伊邪諾尊が桃の実を下さった。それで勝ったという事が古事記にあるが、東横問題で、百円札で六万円持って行って喰い止めた事がある。
 伊邪諾、伊邪冊尊は尉と姥になる。

那岐那美の二尊は尉と姥とならせ大天地を浄めますかも

那岐那美の二尊は尉と姥とならせ大天地を浄めますかも

「那岐、那美の、二尊は尉と姥とならせ大天地(オオアメツチ)を、浄めますかも」とありますが、那岐那美二尊が即ち、尉と姥とになるんで、尉と姥が箒木を持ったり、熊手を持ったりしてをりますが、之は姥が一方で掃除をし、尉が、熊手を持って、種々なものを、掻き集める、要するに世界を掃除をし、整理をするといふ意味であります。昔から諾冊二尊が国生み、島生みの御神業をなさったといふ伝説がありますが、ヤハリ今度の新しい世界を生む事にもなるので混沌たる泥海の如き世界に対し、天の浮橋に立たれて塩コホロコホロと掻き廻され、真善美の国生み、島生みの御神業をなさるのであります。

大光明世界の実相(五)  聖王母  (光世五号  昭和十一年一月二十五日)

  昔から三千年の桃の実といふ事がありますが、その謂はれに就てお話致しませう。アノ謡曲にある「西王母(セイオウボ) 」あれは詰りその事になるのであります。
      「聖王母の園としいふは仏説の胎蔵界の謎にぞありける」
      「黄錦(コウキン)の御衣(ギョイ) の御袖(ミソデ) をひるがへし桃奉る聖王母かも」
聖王母の園と言ひますと、それは、今日迄の三千年の歴史なのであります。仏教で胎蔵界と称してをるのがそれであります。何故かといふと、三千年間の文化の歴史と言ふものは、今度の大光明世界、ミロクの世を生まんが為の準備であったのであります。でありますから、三千年間の歴史中に、ミロクの世即ち、光明世界を胎蔵してゐた、それが聖王母の園であります。聖王母の御本体は伊邪冊尊(イザナミノミコト)になります。今迄の世界は伊邪冊尊の御経綸であった、西王母となられて、三千年間、大光明世界を生むべく、経綸されなさったのであります。でありますから、謡曲にある黄錦の御衣を召し、その桃の実を大君に奉るといふ件りがそれであります。
聖王母は、聖観音の聖の字を書く場合もあり、西の王と書く場合もありますが、同じであります。伊邪冊尊は、西の経綸をされた、今迄の東洋文明、及び西洋文明はそれであったのであります。で、最後に、それに生命を入れるべく生れたのが、桃太郎になるのであって、先刻の歌の中に「思ひきや昔語りの桃太郎は千手観音の化現にぞある」といふのが、それであります。そして此桃太郎が、鬼ヶ島を征伐して宝を引いて来るといふ事になってをりますが、あれは、千手観音様が、種々(イロイロ)な物を千の御手に持たれてゐる。あれがその意味になるので、今迄、世界の凡ゆる物は、詰り鬼が持ってゐた、ツマリ、悪に左右されてゐた、伊邪冊尊が折角作られた、素晴らしい文化が、悪の活動になってゐたといふのは、そういふ訳なのであります。それを今度は、観音様が自由になさる。ツマリ、あらゆる文化を、善の活動になさるといふ訳であります。「那岐、那美の、二尊は尉と姥とならせ大天地(オオアメツチ)を、浄めますかも」とありますが、那岐那美二尊が即ち、尉と姥とになるんで、尉と姥が箒木を持ったり、熊手を持ったりしてをりますが、之は姥が一方で掃除をし、尉が、熊手を持って、種々なものを、掻き集める、要するに世界を掃除をし、整理をするといふ意味であります。昔から諾冊二尊が国生み、島生みの御神業をなさったといふ伝説がありますが、ヤハリ今度の新しい世界を生む事にもなるので混沌たる泥海の如き世界に対し、天の浮橋に立たれて塩コホロコホロと掻き廻され、真善美の国生み、島生みの御神業をなさるのであります。
      「いさぎよし黄泉比良坂(ヒラサカ)のたたかひに勲たつる桃の実の魂」
之は、古事記にもある、黄泉比良坂の戦ひであります。と言ふのは矢張り、桃太郎と鬼とが戦った事を言ふのであります。黄泉比良坂といふ事は、言霊学上、解釈すると、非常に面白いんでありますが、之はいづれお話するとして、比良坂の戦で、伊邪諾尊が桃の実を取って、敵をめがけて打つける、それで鬼共は適はぬと逃げたといふのでありますが、その桃の実が桃太郎になるのであります。ですから此処に御祭りしてある、千手観音様の御神体の、お顔は非常にお若いのです。これは書き直したんですが、書き直す前は、よく仏像にある、髯が一寸ある様に書いたのです。所が霊写真に出たのは、全然髯など無く、大変お若いので、之もやはり丁度桃太郎のお顔になるんであります。黄泉比良坂の戦といふと幾段にもなってをります。一番初めの比良坂の戦が、七年程前に面白い事がありました、それは私が、明治神宮の参道--あそこは坂になってをりますが、アノ坂は、なだらかな坂、平坂でありますが、一番低くなった所の横町に、某華族で○○○○といふ人がありまして、此人の家へ連れられて行った事がありましたが、其時に神様から知らされたんですが、それが鬼ヶ島征伐の一番初めの戦だといふ事なのです。そうして、その○○さんの家は○○町百○一番地なんで、百の字はモモと読みます、一は初めであります、詰り桃の初めといふ事になるんで、面白いのは其方の姓に、鬼の字が入って居るのであります。然し、其人が鬼といふのではない、単に経綸の型といふ意味であります。其後二段三段と戦ひがありましたが、今は御話しが出来ません、兎に角其度毎に、勝利を得ては、今日に至ったのであります。段々戦ひが大きくなって今も、戦ひをやってゐるのであります。面白いのは一昨年の五月に、私が応神堂へ来た時に、清水さんが、私が桃太郎の姿をして表で何かやってゐたといふ夢を見られた事があります。それは桃太郎が、愈々表面へ出るといふ告(シラ)せであります。 
「鬼ヶ城やがて陥なむ、桃太郎は最勝妙如来の君にし在(イマ)せば」 
此歌も矢張り、桃太郎は観音様で、最勝妙如来と申し、何をされても必ず勝たれるといふのであります。そして、三月三日は桃の実を祝ひ、実を結ぶのが五月五日で、三が女で、五が男であります。それで五月五日に、鯉幟を立てますがあれも深い意味があるので、あれを幟といひます。コヒノボリと言ひますが、鯉は魚の中で観音になるのです。本当の真鯉は、鱗が三十三枚ある、観音様の三十三相と言ふ訳であります。ツマリ菩薩として「下級」に堕(オ) ちて居られたが、時節が来て、鯉の様にノボル、出世をされるといふ意味であります。
  昔から、五節句やお伽話、謡曲、常磐津、長唄などに、謎や神秘が秘められてある。それは皆、神様が、今度の事の準備をされたのであります。長唄の勧進帳にも、非常な神秘がありますが、何れお話する時がありませう。それから常磐津の乗合舟なども、士農工商、あらゆる階級が一つ舟に乗って、終にミロクの彼岸にも達するといふ意味であります。

尉と姥とで世界の大掃除を致す

尉と姥

           御講話  (昭和十年二月十一日)  

  只今の東光男氏の講演は、実に面白う御座いました。余程老巧にならなければ出来ません。人を呑んでかからねば出来ません。今日は紀元節のお目出度い日であります。紀元二五九五年でありまして、西暦一九三五年とて、是れも五年となって居ります。今年から五六七となり之が或重大な意味になります。
  今東氏が、俺がやらなければ病貧争の無い世界とは成らんと申されましたが、私から申しますと、私が言うんじゃない、観音様がお前がやらなければ駄目だと申されるのであります。それはいささかずるいかも知れませんが、今迄の罪穢が出て亡びる者も打倒れる者も出来るから、岡田がやったとなると恨まれるが、観音様がやったのだと言えば文句はありません。
  今日の紀元節についてそう思ったが、荒木大将や丸山鶴吉氏のお話を聞きましたが、非常に日本精神を高潮しておりましたが結構であります。これも非常に永久の流行であります。
  私は今東氏のお話の通り、観音様の後の艮、観音様の艮に当る橋場で生れて丁度十五迄、浅草は東京の艮となります。又、東京は日本の艮に当り、日本は世界の艮であります。東と申しましても、太陽は東というよりは、艮によった方から昇ります。余程艮に縁があります。
  浅草観音の御神体は、明治時代になくなっているという事は事実らしいのであります。彼方からも此方からも、これが浅草観音の御神体だと言って出たが、戦国時代には源頼朝や楠正成や徳川家康と言った武将が陣中へ祭っておりました。これ等は皆一寸八分の観音様の為に、所々から沢山出る訳であります。本当の御神体は浅草の橋場の私の生れた所の十軒ばかり先の長勝寺に安置してありまして、御開帳中浅草寺へお移しして居ったのであります。
  私の曽祖父というのが、橋場から直き五六丁の処に浅草町と言う処があります。其処で質屋をして武蔵屋といって居りました。その当時その辺での相当の財産家で、義侠心に富み今の町長位の資格があり、人を助ける力があり、鳴らしたものでした。武蔵屋喜左衛門とて其界隈での幅ききでありました。明治になるまでやっておりましたが、何だか知りませんが、其当時御神体を質に預けて、そのままになったのであります。尤も観音様は宮戸川へ流れて来て居たから、流れるのが因縁かも知れません。私の父の乳母が私の家に御神体があったと言っておりました。義理の父の兄が失敗して、それが人手に渡したかも知れませんが今はありません。
  私の家の寺は三河島の観音寺で、自分は子供の時から観音様に非常に縁があると思いましたが、今になるとよく判った訳であります。それから先程、荒木大将のことを申しましたが、そのお話の中に三種の神器というお話がありました。これについてお話申し上げます。
      八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)              +
      天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)              +となって居ります。
      八咫鏡(ヤタノカガミ)                     +
  これを仏界では、玉は観音、剣は阿彌陀、鏡は釈迦となります。これが三人のみろく様となります。これは、今迄誰も言った人はありません。又、玉は日になり、剣は月となり、鏡は大地となります。これはよく間違はれて説かれて居ります。
  玉は丸いものでありますから、太陽であります。月は本当の剣の形となって居ります。「つるぎ」をつめると「つき」になり、鏡は角が八つあり、八角の形となります。大地のことを、大八洲と言いますが、鏡は大八洲の形となっているのであります。数から申しますと、玉が五、剣が六、鏡が七となります。これが三種の神器なのであります。
  それから、日本が玉で、西洋が剣で、東洋が鏡となります。ですから、西洋は武力を使って他国を侵略する様なこととなるのであります。又、東洋は土だから年中蹂躙されて居ります。
  印度の言葉は陰陽の陰、度は土が本当であります。「陰の土」であって、印度は一名月の国であるから陰であります。又、印度は土の国でありますから、陰の土と書く のが本当だと思います。
  三種の神器は形態的の物質に限らず、凡ゆるものに三種の神器があります。舌から言葉が発せられ、舌は言霊の剣であります。舌の先で何でも問題を起すことも切ることも、威服させるのも舌の先で出来るのであります。よくあの人は舌が切れるというのも剣であります。鏡は心の事で、心の鏡が曇るとよく写らんから、人に騙されたり致します。
  三種の神器は至る所にありますが、一番大きいのが世界的の三種の神器であります。神様で申しますと、玉は天照大神、剣は素盞嗚尊、鏡は若姫岐美尊となります。尚又、主師親から申しますと、玉は主で、ゝを上へ打てば主となります。剣は師であります。鏡は親になります。丁度よく合って参ります。
  釈迦が鏡でありまして親であります。阿彌陀も観音も下ではありますが、釈迦が親となるのであります。阿彌陀様も観音様も、お釈迦様が産んだわけであります。昔から偉い人を産んだ其の人が偉いというが、それは違います。ムッソリーニより母の方が偉いという人はありません。
  「主師親」を一つにして権力をもって居られるのが、天皇陛下であります。これがわかれば、今言った様になるのであります。もっと分ければありますが、これ位にしておきます。物質と致しますと御皇室の宝となります。今言った様に、印度と言う字の様になっている字があります。これにとらわれて色々な事があります。
東氏が浅草観音の写真を写しましたが、浅草観音に「施無畏」と書いた額があります。観音様は「施無畏菩薩」というから書いたものかも知れませんが、意味が今迄判らん-。「施して畏れ無し」では判りません。これは当字であります。本当に解釈すると「施無畏」とは、言霊の霊返しで、セムはスとなる。畏はイで、イとは位であって、主の位であります。それを匿してあったのであります。「施無畏菩薩」は、主の位を持った菩薩という事であります。是れから斯ういう事になるのであります。
それから、この間も高天原のことを話しましたが、天の岩戸は何処かと言う研究がありますが、扉が信州の戸隠山迄飛んだのだから何処か関東にあるという説がありますが、これは何処にもあります。小さくは人間の心に岩戸があります。観音様の事を知って悟った人は、心の岩戸が開けたのであります。それですから、話しても観音様の事が判らん人は岩戸を堅くしめているのであります。話をしたり本に書いてあるのを見て開く人もありますが、開く人が少ないのであります。
  心の岩戸に光を与えると一番早く開きます。一番の根本は、世界の一番根本の岩戸を開けることであります。今はあらゆる階級や国魂が締っております。岩戸が開けば、天照大神様が住まっているのであります。心の岩戸を開けば、太陽の光明を拝めます。観音様の光を感じて拝める人は、心の岩戸が開いているから拝めるのであります。
  心と魂とは違います。人間の五体全部に行き渡っているのは、精霊でありまして、その中心が心であります。其故中心の心は芯であります。心の中に又、魂が入っております。魂は非常に小さいもので、心の百分の一であります。又、心は精霊の百分の一で、体からは千分の一でありますから、九分九厘と一厘となり、又、千騎一騎の事にもなります。千分の一の魂が、千倍の体を左右するのであります。
  心の岩戸が開けるとは、魂を包んでいる心が開けるのでありまして、心の岩戸が始終堅くなって居ったのが開けるから、魂が光を拝む事が出来る様になるのであります。今迄の教や道徳では、魂迄届きません。心迄より届かなかったのであります。それで、世界が精霊ならば、日本が心となり、東京が魂となるのであります。凡ゆるものが皆三段になっているから、これも三段になっているのであります。それから、この東京が精霊とすれば麹町が心であって、宮城が魂となるのであります。それで、この精霊及び心と魂が、霊と体となっております。要之、天地となっているのであります。精霊の天は上半身、下半身は地であります。然し、下半身と申しましても、体半身ではなくて、首から上が天で、下が地であります。天の中心は脳髄の真中にあります。地の中心は臍であります。臍のことを中腑というのは、此意味であります。ですから中心が天地になりますから、魂が天地になります。別々の様ですが感合しております。
  昔は腹で考えるという。今は頭で考えると言いますが、これはどちらでもあります。両方が感応し合って考えが出るのです。吾々が考へるにも、頭や腹で考へる様な気が致しますが、之は両方であるからであります。然しこの命令権は頭にあります。  それは天であるからであります。未だ詳しく解けば説けるがその位にしておきまして、是をもっと徹底さして行きますと、天皇陛下のお働きに迄話がなりますから、面倒になりますから止めます。
  観音会の仕事は、人間の心の岩戸を開ければ、世界中開かれるのであります。宇都売之命が踊って神々様を笑はせますが、観音会には笑が必要なのであります。何故かと申しますと、議論や説教では岩戸は開けません。笑はにこやかであります。笑い合う様でなければ心の岩戸は開けません。議論や小言では逆に岩戸が締ってしまいます。観音会は話などせず、祭らして拝ませればよいと云うのであります。藪から棒に祭れと云っても駄目でありますから、御神徳話をすればよいのであります。それで話が出来るのであります。
  今迄の宗教は教えとか説教とかで責めて行きます。理屈や言葉の数で責めるのであります。天理教では四時間でも五時間でも座ってやってますが、間違いであります。値打のないものは説明がいりますが、価値のあるものは説明はいりません。話をすれば判ります。大いに笑う気分でなければ駄目であります。本当の岩戸は開けんのでありますから、観音会では笑冠句を奨励して居ります。他では此の催しはやりません。
キリストは笑は罪悪だ。笑い合う処罪悪生るという、牧師の説教は、まるで泣声をしています。これでは岩戸は開けません。大いに笑って大いに朗かでなければ駄目です。朗かな人の事を明るいと言いますが、明るくしていねば天国は開けません。
「光明世界」でお読みになったでしょうが、阿呆文学は長く続ける心算ですが、此次は、「目下罪障消滅中」というのであります。其次は、「大千誤魔化し世界」だから、本当の事を言うと自分が暴露されるから、言う事が出来なかったので、あらゆる世の中の事が皆誤魔化しになっているから、迷いを生ずるのであります。仏教でも何でも、判った人がないから山へ籠ったり、断食をしたりして、難行苦行しても稍近い所まで行くが、結局は今一歩の所で判らない事になってしまったのであります。坊主の堕落は、物が判らないから半やけになるから、あのようにだらしが無い事となります。今度は判らない事を世の中に知らせるのであります。私が、これから話をするのが、第一歩であります。
  阿彌陀様が一番偉いと言う人と、又、お釈迦様が一番偉いという人がありますが、皆間違いで、誤魔化しであります。東氏の言われた奉仕的大安売も、高いものを売りつけ様とする手段より外ならないのであります。仏教に限らず、総て世の中の事が皆其の通りであります。皆誤魔化しであります。私が段々世の中の事を暴露致します。それには、第一に怒らん様に滑稽に言うのであります。滑稽に言えば笑いながら其の人達が改心致します事になります。
  観音様は世の音声を観ると解釈している様ですが、世の音声を見て総てを悟って済度すると言ふが、観音様はつんぼではありませんから、音を見ないでもよろしいのであります。私は生れてから未だ曽つて音を観た事はありません。此の次は観音様のお話を致します。今迄の世の中のあらゆる事は判らなかったから、皆誤魔化しで終って居ったのであります。誤魔化されて感心して随喜の涙を流して居ったのであります。
  仏教の解説も皆こじつけであるばかりであります。そういう事を余程暇な人があったと見えて、盛んに奨励して居たのであります。禅宗の坊さんや信者達がよく言ふ、隻手(セキシュ)の声を聞くなんて真面目になってやっているんですから、人間も馬鹿馬鹿しいものであります。この隻手の声には色々解釈がありますが、私は、隻手では音はない、双手(モロテ)で音がするのであります。私は隻手では音はないと解釈いたします。それから、よく聞く事でありますが、肉体はあるのでありますが、或人は肉体はあるが事実は空だといいます。
  あの生長の家の谷口正治氏は大本時代に、私も知って居りますが、矢張りこれと同じ説でありますが、この谷口氏は病気は仮のものであるから心で健全だと思えば癒るというのでありまして、これ等が誤魔化しの第一等のものでありまして、斯ういう風に、今に至るものを変てこに、曖昧にしてゆくので判らなくなります。親鸞の言った、「善人は救われる、况んや悪人をや」と言う事があるが、是れを聞いて信者が皆喜んで居りますが、是れが誤魔化しの傑作であります。此故に霊界に沢山居る悪魔が、世の中を悪化する様に出て来て、この連中に憑って活動するのでありまして、世の中を悪くする悪魔の仕組であったのであります。此の通り阿彌陀の悪の働きをやったのでありますが、それも天地経綸の重要なる悪の役割をしたのでありますが、結局、これも善になるのであります。
  阿彌陀の陀の字が非常に悪の働きとなるのであります。陀の字の(コザトヘン)を虫偏にすれば蛇になります。是れを以て悟れば良いのであります。今度は阿彌陀様が改心するのであります。マッソンを拵えたのは、奥の院に阿彌陀様が祭ってあったのであります。
  今迄は、観音様より上にいて人々に拝ませて居たのでありますが、阿彌陀が下に降って観音様より下になれば、五六七の世となるのであります。此の様な例は何程でも沢山ありますが、善悪を判らない様にしていたのでありまして、南無阿彌陀仏を称へさえすれば、悪も救われると言うが、之が悪人を作る事が多くなるのであります。出来た悪を救うよりも、悪を最初から作らん様にするのが、本当の教であります。この様に根本が大変に違うのであります。
  救世軍が年の暮に鍋を出して、正月の餅を配る事をやり、又、不仕合せの者、罪人等を救うと言うが、其の根本に遡り、不幸な者が出来ん様にするのを考えないで救うと思っても根本から出ぬ様にしなければ、是れは根絶する事も出来ず、何時迄やっても際限のない事になるのであります。救うのも必要だが、この様な不幸な者の沢山出ぬ様にするのが一番良いのであります。社会事業は箆棒(ベラボウ)だ、一方で不幸な人を造り、それを救うのであります。それが出ぬ様にするのが本当なのだ。之が誤魔化しの世界なのであります。
  悪の出る根本は何処にあるか、これは、支配階級が正しい行をするのが根本であります。宗教家や政治家は、良いことをせねばなりません。上流が濁れば下流が濁るのが当り前であります。総て源にあるのであります。源の人間が本当の働きをすれば善いのであります。処が、今の上流は、それをやるのが嫌なのだ。妾を置いたり、芸者買いをやったり、女子に手をつけたりする、斯ういう事が止められんのであります。根本を良くするのが嫌なのであります。
  政治家も神様を祭り、政治を行う前に、先づ神を拝んで、然る後行えば良い政治が出来るからよいが、待合や料理屋でやらなければ、会議が出来ん、乱れているから本当の事が出来ません。自力更生、農村救済等と色々な事は言うが、農民が気の毒だから救わねばならんとすれば、先づ以て料理屋で食って居たのを三十銭位の弁当にするとか、先づ第一に、自分等が率先して是れを実行すればよいのであります。世の中の人も競って之を真似るのであります。凶作地の話を待合でやるのでは問題になりません。何千坪かの邸宅を構え、祖先の関ケ原の戦の功名で公爵になり上っている人達が、教化運動の総裁でやっているが、自分の行を改めずに、人に行わしても駄目であります。悪人が出来るのは当り前であります。支配階級の人が、自分達の行を見せてくれて、世の中の人も見習う事で、納得するのであります。
  国際聯盟の問題の時、満洲を日本が武力で取ったと言ったが、国際聯盟の人達は、自分の国では沢山の植民地を持っているのは何だ。皆武力で取ったのではないか。日本は満洲が日本の生命線であるから独立させたのだ。又、現在でも武力で圧(オサ)えつけているではないか。印度等でも少し騒動すれば、沢山な軍隊がどんどん虐殺する。日本で取れば文句をいう。実におかしいではないか。日本の満洲を取ったお手本は誰だと聞きたいのであります。悪人の出る根本は誰だ、やはり自分達の行動からではないか。之が誤魔化し世界の誤魔化し世界たる由縁であります。
                      ☆
  北○は盤古神王系にして、南○は大自在天系なり。南○より出たる出口王仁三郎は大自在天にして、今の働きは大六天の魔王なり。それで大悪魔にはあれども、岡田仁斎先生を産みたるは、大悪魔の悪業を償いて余りある大功あれば、今後に於て改心すれば、又救われて元の霊魂に復帰する事を得るなり。素盞嗚尊の霊魂なり。月は水なれば阿彌陀も水なり、阿彌陀仏を今に於て拝む者は、体中冷ゆるは当然なり。
  日は火なり、観音様は日の神様なれば、冷ゆる人が観音会に入会して、観音様を拝めば冷も去り暖くなるなり。
  月は阿彌陀仏にして大自在天なり。さればこそ六にして中界の魔王となるなり。大六天の魔王とは矢張り六なればなり。出口王仁三郎なり。又、猿田彦命が中界の魔王となると云ふ大本教のお筆先あり。これも此意味なり。猿田彦命は手力男命となる。
  昭和神聖会は此の働きなれば大六天の魔王の活動となるなり。則ち、出口王仁三郎の主催なればなり。釈迦は悪少し、則ち教祖様の意味となる。天若彦は七の霊魂なり。教祖様の夫なればなり。
  三千年の桃の実とは西王母の事にして、現界の歴史である。仏教では胎蔵界と言う。彌勒の出現の時まで五六七を胎蔵していたのである。西王母は聖王母とも書く、伊邪那美尊の事である。今迄の世界は、伊邪那美尊の御経綸である。伊邪那美尊は西の経綸である。西王母より生れて、いよいよ桃太郎となる。千手観音は桃太郎の事である。沢山の宝を取るのは、千手観音の手に沢山の宝を持っている。あれは今迄の世界の物は総て鬼ケ島の鬼が支配して居ったのを取返した事となるのであって、今迄のあらゆる権力を鬼が持っていたのである。今後鬼が改心する事になるのである。桃太郎に出られては迚(トテ)もかなわないといって降参するのである。
  今迄の支配権は(支配権といっても霊的である)鬼が持っていたのを、いよいよ奉還するのである。
  尉と姥とで世界の大掃除を致すことである。黄泉津比良坂(ヨモツヒラサカ)の戦は鬼と桃太郎の戦である。桃太郎は桃の実である。千手観音である。応神堂の千手観音のお顔は若いが、あれは桃太郎の顔である。
  黄泉津比良坂の戦は、一番初めは明治神宮の参道九鬼隆二子爵の家に行ったことである。青山隠田百一番地で、百一番は「桃のはじめ」と言う事、九鬼とは沢山の鬼の事である。其戦で勝って如意宝珠の玉を夫婦で持って来て呉れた。今でもどんどん第二、第三、第四と戦っているのである。麹町へ出たのは、鬼ケ島の真中へ出て来た事である。
  桃太郎は最勝妙如来である。必ず勝つのである。桃は三月三日に咲いて五月五日に実る。五月五日の鯉のぼりの事は非常なる意味がある。鯉は魚の観音である。真鯉の鱗は三十三枚である。
  常磐津や長唄等には神秘が沢山ある。これは神様が準備して居られたのである。観音宗とか観音教とかいう宗教の今迄出なかったのは、又神様が取っておかれたのである。
  今度の祝詞の中にある大千三千世界と書いてあるのも、今迄の三千大千世界となっていたのを逆にしたのであって、これは非常なる意味がある。大千のセンはスとなる、オスの意味にして男の事である。又、大のオオは王ともなる。三千はミスとなり、メスとなり、女の意味である。これは今迄女が上で男が下であった事になるのだ。嬶天下の意味にして今迄の逆の世の言葉である。いよいよ時節が来て大千三千世界となり、男が上になったのである。
  釈迦とはサカの意味にして逆である。神様へ榊を上げる事も逆の木を上げた事で、逆の世を表わしているのである。
  南無阿は間違いであり、南無妙も間違いで阿無南、妙無南とならねばならぬのである。要するに、今迄の仏教は間違いであるから、止めようと言う事になるのだ。南無阿とか、南無妙とか称える事は間違いの世を謳歌する事になるので、我々としては絶対にやめねばならぬ。南無と言う字は決して使用する事はいけない事になる、心すべきである。

伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。

伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。

御講話  (昭和二十六年九月二十一日) 

  之は文明の創造に於ける宗教篇です。この前読みましたがその続きです。之は皆が分らない事を随分書いてますから面白い点も大いに有りますが、又非常に参考になる点もありますから特別耳の穴をかっぽじって聞きもらさぬ様に……。
(御論文「仏教の起源」「伊都能売神」「観世音菩薩」のあとの御言葉。)
  之で未だ色々面白い事があるが一寸書けない事が相当あるのですからそう言うのは話をするかしようと思ってゐるが、ここに伊弉諾尊の子供で五人としてあるがもう一人ある。もう一人と言うのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。息子に国武彦尊と言うのがありそれが一番長男になる。当時大将軍と言い勇猛で可成り勝手な事をやって居たその罪によって言はば地獄に行かれた様な事になる。一番末が初稚姫尊と言い之が天理教祖の中山みき子となる。そうゆう様に幾度も生れ変ってゐる。大将軍の妹になる。そこで霊界で地獄と言っても普通の人間と違ひます。修行するんです。修行した結果大いに世の中の為になろうと言うので天理教祖の中山みき子に憑った。それで中山みき子に最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。そうゆう因縁なんです。そこで最初の中は力がありますから病気治しもさせたが、その力によって良く病気が治った。それで最初は病気治しで世の中に出たんです。それからもう一つ日本民族の霊的考察の中にありますが、そこにもっていってそれを出雲系-素盞嗚尊が利用した。利用して、そうして、盤古神皇に取って代ろうとした訳です。それが徳川家康の系統なんです。それは霊的考察にざっと書いてありますが、そう言う意味です。天理教の本体を書く事は天理教に悪いですからそこで書かなかった。
  それからもう一つ書こうと思って止した事がある。今の稚姫君尊ですね。之がこの次に書きますがお釈迦さんですね。ですから釈迦、阿彌陀と言うのは伊都能売神皇が印度に行かれて観自在天と言ふ御名前になられ、霊は釈迦と阿彌陀となった。阿彌陀は素盞嗚尊です。そこで稚姫君尊は釈迦になる。そこで釈迦は変性女子と言はれたと言うのは稚姫君尊だから女になる。それで彌勒三会にあります「鐘の音」と言うのがありますが、三人の彌勒と言うのは釈迦が報身、報いると言う字です。阿彌陀が法身彌勒、観音は応身彌勒、之が三尊の彌陀になる。処が彌勒三会と言うのは大本教になる。大本教はその為に出た宗教です。大本教祖出口直と言う方は釈迦の稚姫君尊です。大本教のお筆先にあるが「直の御魂は半分は国常立尊、半分が稚姫君尊である」と言うのはそうゆう事です。出口王仁三郎聖師様この方が阿彌陀になる。それで自分は月の神様で、瑞月と言う名前をつけたんですね。だから寂光の浄土と言いますね。月の天国と言うんですね。
  そんな様な訳で、大本教の教祖さんが釈迦になる。そうして聖師さんが阿彌陀となる。そこの二人に生れたのが私です。私が応身彌勒ですね。この三人が会った。之は誰も知らない。私は知らせたくないと言うのは、大本教の信者がこっちに来て了うからね、だから書きたいが書かないんです。分ったら大変だからね、そんな様な訳で応身の彌勒と言うのは観音です。そこで観音会をつくった。観音を芯にしてやっていたからね。つまり大本教は天理教と姉妹教になる。それで大本教では天理教の教祖を祀ってやってゐる。教祖さんの出口直の妹になる。で、その親が伊弉諾尊-国常立尊になる訳です。中々ここの処は不思議です。すっかり分れば何でもないが、中々ね。それで仏と言うのは神の化身です。化身と言う事は印度は大自在天が支配していた時、バラモンと言うのが印度ですから、そこに仏教を弘めなければならないと言うので、最初稚姫君尊と素盞嗚尊が行って仏教の基礎を作った、そこに伊都能売神皇が行った。それを化仏化神と言う。その時天の八人のお子さんで五男三女と言う、之が八大龍王になる。何故と言ってその時五男三女と言うのは、自分は印度に行くのは嫌だと言ってどうしても日本に居ると言ふ。仏はいずれ仏滅の世になると言うので龍神になってそれを待たれた。日本の近海ですね、越後と佐渡の間だとか、東北の方にもあるし、房州と関東の間の海、九州の有明、そうゆう処に飛び込んで時を待った。それが八大龍王です。そうして総大将が伊都能売神様ですね。それが日本に帰ろうと思った処、今読んだ様に帰れないので霊で日本に来て自分も仏滅迄隠れていると言うので、先にも言った通り近江の琵琶湖に入り琵琶湖の底に龍神となられて、之が金龍ですね。それで霊でも霊と体がある。霊の体の方は木の花咲爺姫で、そうして富士山に祀られている。それから琵琶湖の方が伊都能売金龍として隠れてゐる。この事は先に書きましたが、そうして時を待たれた。
  そうして約三千年、本当言うと二千六百年ですが、之が最初三千年の積りだったが神様の方で力を強くしたんですね。それで邪神の方も書きます。邪神の方の活動ですね、大変なんです。こう言う宗教的なものは今迄何もないが中味をさらけ出す訳です。今迄は之を分らせる事が出来ない。何故分らせる事が出来ないかと言うと時期が早いからです。やはり成功しないからです。と言うのは色々夜の世界と昼間の世界の関係もありますからね。邪神の方の活躍ですね。未だずっと先までやる積りだったが段々神様の方でも強くなって、邪神の方がこの辺で往生する事になる。邪神の活躍というのももう直きなんです。それで五六七の世が出来るんですがね。大本教のお筆先にありますが、「遅き速きはあるが一度神の申した事に違ひはないぞよ」之は千変万化邪神に対抗していく事になるので、今迄の私とメシヤ教に対する色々な手も邪神との闘いです。今もって続いている訳ですがね。段々こっちの方が勝って行く訳です。もう一息ですね。もう一息でこっちが本当に勝って行く。そこでその期限と言うのは来年あたりですね。来年は勝って行く。然し先でも色んな妨害があるんです。五六七の世まで続くんです。然し先の方で段々弱って来ますから同じ闘いでも楽になって来ますね。ですからもう僅かです。もう一息です。
  来年から再来年にかけて素晴らしい色んな面白い事がある。それから霊界も中々複雑な色んな事がある。丁度今出てますがね。中共と聯合軍との停戦協定ですが良く現はれている。邪神の方でも中々ね。それから神様の方でも、つまり一挙にやって了えば邪神が負けるんですが、そうすると救われない者や亡ぶ者が沢山出来ますから、神様の慈悲によってそう言う者を救い乍ら分らせる。そうして被害を少なくしようと言うのが神様の慈悲なんです。その為にまだるっこい様な事があるんですね。あんまり纒まらない話ですが、大本教との関係ですね。一つ面白い事がある。
  私が大本教に居る時、東京の支部長というので羽藤と言う軍人ですが、陸軍の中佐かあたりで現役じゃなくて退役ですが、大本教で方々に冠句の選に招ばれた。之が中野の支部長をやってゐた。そこで冠句の句を訂して書いた処、この羽藤と言う人の魂に余程刺戟を与えた。之は大変だ、岡田さんは唯者(タダモノ)じゃない。そこで遂に精神病になって綾部に行ったんです。私が羽藤さんを発狂させたと言う噂がたった。それで綾部に行って中野武営という人で熱心な信者で幹部になったが、そこの家は羽藤という家と幾らか親戚で、すると聖師さんから私に電報が来て直ぐ来て呉れというので行った。今羽藤が気違いになって私の処で治らないからあなた治してくれ、どうもあなたが原因らしいと言うので、兎に角会いましょうと言うので会った。皆がいる処では話が出来ないと言うので別間に行った処、普通の精神病とは違う、真面目です。私の御魂はこう言うんです。私は世の中をもち荒した邪神の頭目じゃないが、邪神の頭目にすっかり瞞されて世の中をもち荒した。それでどうしても霊界に行かなければならない。そうして今迄の罪を贖罪しなければならない。然しあなたは霊界で長い間苦しまれていたが、私と交替になるのでしっかりやってもらいたいと言うんです。気違いどころじゃない。つまり神様は気違いにさせて置いて知らせるんです。だから神様は中々うまい手段で知らせると思った。国常立尊が閻魔大王で三千年の間霊界で観てゐられた。それが今度出たお筆先に、今度は国常立尊が此の世の閻魔になり世の建替えを致すぞよと言うのがあり、建替とは審判です。だから今度は俺を使って国常立尊が審判をするんだと思った。それからすぐに羽藤という人は死にました。色々な事があり中々神秘です。本や何かに書く事が出来ないんです。

〔第三講〕

    〔第三講〕

      人生の目的

   これから、又宗教的のお話を申し上げさせて戴きます。
   人間が現世に生まれて来るという事は、神様の命令によるのであります。生命の「命」は、命令の「命」と同一であるのもその意味であります。人間は何故に生まれたかという事を知らない限り、正しい行動も、安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に竟(おわ)る惧(おそ)れがあります。
   しからば神様の御意図とは何ぞやと申しますと、それはこの地上に理想世界、言い変えれば“地上天国”を建設する事で御座います。その規模において、その構想において、壮麗雄大で、人間の智慧では到底これを解する事は出来ないので御座います。しかし無限の進歩をしつつある文化は、極(きわま)るところがないのでありますが、現在まで進歩した文化は唯物的文化であって、地上天国を建設する基礎的工作に過ぎなかったのであります。
   そうしで神様は、一人々々にそれぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き変り死に変り、理想の目的即ち“地上天国建設”のために一歩々々前進せしめつつあるのであります。従って善も悪も、戦争も平和も、破壊も創造も、進化に必要な一過程に過ぎない事を知るべきであります。
   そうして今日はいかなる「時」であるかと申しますと――それは夜昼転換期で、破壊と建設とが同時に行われつつあり、即ち全世界は今正に新しい時代に向って一大飛躍せんとしつつある黎明期なのであります。今人類は野蛮の衣をカナグリ捨てて、高度の文化世界に達せんとしつつあるのであります。

      御神霊

   今までは夜の世界でありましたから、神界というものは隠されて仏界となっていましたため、一番元の神様――即ち根本の御神霊も隠れておられたのであります。その隠れておられた元の神様は、観音様となっておられたのであります。
   今や天運循環し、天の時が来ましたので、今まで仏界に隠れておられた観音様は頭巾を脱がれ、昼の世界の創造者として本然の御姿、即ち日月地(ミロク)大御神様、メシヤ様として御復位遊ばされつつあるので御座います。
   今日までは夜の世界であったから月の系統の神様の支配であって、絶対力を御持ちにならなかったため、悪魔がはびこって今日のごとき地獄の世相が出来たのであります。それで神は無きもののように思って来たのであります。しかし昼の世界になれば、日の系統の神様の支配となり、絶対力を御持ちになっておられるため、悪魔も邪魔をする事が出来ませんので、天国が出現するのであります。今度は、神様が有るか無いか、はっきりと人間に分る時が来たのであります。

      生と死

   人間の死とは、霊が使用不能になった肉体から離脱し、霊界に再び還って霊界人となり、霊界の生活が始まるのであります。そうして人間は、霊界における生活が何年か何十年か何百年か続いて再び現界に生まれて来るものであります。かくのごとく人間は生き変り死に変り、何回でも生まれて来るのであります。この事は重大な事ですから、しっかり頭の中に入れて戴きとう御座います。
   人間は現界において意識すると意識しないとにかかわらず、霊体に汚濁がたまるものであり、それと共に、肉体の方も病気や老衰のため使用に堪えなくなり、一旦肉体という衣を脱ぎ捨てて霊界に還るのであります。霊魂が霊界に還ると、その霊魂に溜っていた罪穢の浄化作用が始まります。早きは数年数十年、長いのになりますと数百年数千年に及ぶものさえあります。そうしてある程度浄化されたものは、神様の命を受けて再び現界に生まれて来るのであります。
   話は普通の順序でありますが、人により順序通りゆかぬ場合があります。それは生に対する執着の強い者が死んだ場合、霊界の浄化が不充分で再生する場合であります。こういう人は現世で不幸な運命を辿(たど)るものであります。それは霊界で不充分な浄化であったから、その罪穢が現世においても相当残っているからであります。この理によって、世間よく善人でありながら不幸な人があるのであります。しかしある期間不幸であって晩年幸福者となるのは、善を行ってその汚濁の浄化が払拭されるからであります。救世教へ入信しない前は非常に不幸であった人が、この道に励んで時日が経つに従って段々と幸福者となるのは、神秘の御道に入り御手伝をさせて戴くから罪穢が早く浄化され、それがために幸福者となるのであります。
   又早く再生する原因として、本人の執着のみでなく、遺族の執着も影響する場合もあります。世間よく愛児が死んでから間もなく妊娠し生まれるという例がありますが、これは全く死んだ愛児が母親の執者によって早く寄生するのでありまして、こういう子供は幸福ではないのであります。生まれながらにして畸形や不具者がありますが、これも高所から落ちて手や足を折って死んだ場合、それが治りきらないうちに再生したのであります。故に人間は死に際し、執着や恐怖等がなく安らかに往生を遂ぐるよう平常から心掛くべきであります。又、人は生まれながらにして賢愚の別があります。これは古い魂と新しい魂との差異によるのであります。古い魂とは再生の度数が多く、現世の経験を豊かに持っているからであります。新しい魂とは、霊界において生殖作用が行われて生誕するもので、新しく生まれて間もないものでありますから、従って現世における経験が浅いため愚かなわけであります。
   見ず知らずの他人であっても、一度接すると親子のごとく否それ以上に親しみを感ずる事がありますが、これは前生において近親者又は非常に親密な間柄であったためで、この事を称して因縁と言うのであります。又旅行などしてその場所が非常に親しみを感ずる事があり、男女の関係、恋愛関係等の場合も同様の事が言えますが、又、歴史等を読んで、その中の人物に対し親しみを感じたり、反対に憎しみを持つ事がありますが、それらも自分がその時代に生まれ合わせ、何かの関係があったためであります。

      霊界の構成

   霊界は、天国、八衢(やちまた)、地獄の三段階に分れ、更にその一段が三段に分れて、九段階に分れております。霊界の段階の差別は、光と熱であります。最上は光と熱が最も強く、最低の地獄は暗黒と無熱の世界であります。八衢はその中間で現界に相応します。
   この三段階を細別すると、一段は六十段になり、更に最奥天国の一段が加わり、合計百八十一の段階の層になっています故、これを霊層界と呼ぶのであります。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――
         最  奥  天  国 
    ―――――――――――――――――――――――――――  百
     天  上   第 一 天 国         六 
       ―――――――――――――――――――
        中   第 二 天 国         十 
       ―――――――――――――――――――
     国  下   第 三 天 国         段 
    ―――――――――――――――――――――――――――  八
     八  上                   六 
       ―――――――――――――――――――
        中                   十 
       ―――――――――――――――――――
     衢  下                   段 
    ―――――――――――――――――――――――――――  十

        上                  

       ―――――――――――――――――――  六 
          焦 修 色 餓 針 血
     地    熱         の
        中 地 羅 欲 鬼 の 池 赤 青        一
          獄         地
            道 道 道 山 獄 鬼 鬼
       ―――――――――――――――――――  十
            極  凍  根
            寒     底
     獄  下   地  結  の              段
            獄     国         段
               境
    ―――――――――――――――――――――――――――――――――

    そこで、霊界とはどんな所かというと、意志想念の世界であります。
    それは、肉体という物的障碍がないので、素晴しい自由があります。霊の意志によっていかなる所へでも、飛行機よりも早く行けるのであります。千里位は数秒で行けるのであります。ただし霊の行動の早い遅いは霊の階級によるのであります。高級霊即ち神格を得た霊程速かで、最低級の霊は千里を走るのに数十分を要するのであります。何となれば、低級霊程汚濁が多いから重いためであります。最高級の御神霊は一秒の何万分の一よりも早く、一瞬にしていかなる遠距離へも達する事が出来るのであります。又霊は霊自体の想念によって伸縮自在であります。一尺巾位の仏壇の中にも数百人の祖霊が居並ぶ事が出来るのであります。祖霊は人間の心からなる祭典を非常に喜び、形式だけのものは余り喜ばないのでありますから、祭典は身分に応じ、出来るだけ誠を込めて立派に執行すべきであります。

      幽霊

   幽霊を見る人がありますが、これらの多くは死後短時日を経た霊であります。新しい死霊は、霊細胞が濃度でありますから人の目に見えるのであります。そうして、死霊は年月を経るに従って浄化され、稀薄になるので、目に見え悪くなるのであります。

      霊界人の面貌

    人間は一旦霊界人となると、その面貌は、その持っている想念通りになるものであります。例えば、
    善美の心の持主は、美しく和やかな面貌となる。
    醜悪の心の持主は、醜悪の面貌となる。
    悪魔的心の持主は、悪魔の形相となる。
    鬼畜のごとき心の持主は、鬼のごとき形相となる。
    孤独的の心の持主は、痩せ衰えた面貌となる。
    かくのごとく赤裸々に現われるものであります。現界では肉体という衣があるために偽装が出来るのであります。

      顕幽不離

    人間は死んで霊界に往くのでありますが、現世における一切はそのまま持続するので、死の苦痛もそのまま持続するのであります。即ち霊界は現界の延長であると思えば宜しいのであります。

      天狗界

    霊界の中には神界、仏界の外に「天狗界」なるものがあります。天狗界は各地の山嶽地帯の霊界にあります。そして天狗はそれぞれの山の守護をする役目であります。天狗界にも上中下の三段階があり、天狗界の総主宰神は鞍馬山の猿田彦命であります。天狗には「人天」と「鳥天」の二種があります。人天は人間の霊でありまして、現世で学者、文士、弁護士、教育家、神官、僧侶、昔は武士等。これらの人間は死後天狗界に行くのが多いのであります。鳥は死後全部が天狗界に入って人天の命に従って活動するものであります。
   天狗は議論が好きで、勝てば地位が向上するのであります。又無上の楽しみは酒であり、又人に憑依する事を好み、人を驚かす事を得意とします。行者に憑って病気治し等も好むものであります。
   ここで、「酒癖」についてお話しましょう。
   酒癖の原因は酒を好む霊の憑依であります。その霊は常に腹部にいるのであります。この霊は天狗と狸の霊が主ですが、時には龍神もあります。酔っぱらうと議論をするのは天狗で、愉快になったり笑ったり眠くなるのは狸と思えば宜しいです。故にこの霊を浄めれば酒癖は治るのであります。

      龍神界

    龍神の役目は、祓戸の神様の命令により風・雨・雷等を起し、天地間の浄化作用を為す事が主であります。その他一定地域の海・湖沼・河川・池・井戸に至るまで大中小の龍神が住んで守護しているのであります。また樹木に憑依している事もあります。従って、池・沼・井戸等を無断で埋めたり、大きな樹木を伐ると、不思議な災厄が次々起る事は人の識るところであります。現世において執着心の強い人間が霊界へ往くと龍神となるのであります。

      邪神界(兇党界)

    邪神界は悪魔の支配を受ける世界であります。この団体は常に正神と対抗し続けています。正神にも八百万ありますが、邪神の方にも八百万あります。そうして正神は善を行わんとするに対し、邪神は悪を行わんとして、常に相対峙しているものであります。そうして本守護神には常に正神界から霊線を通じて良心が伝流され、又副守護神には邪神界から霊線によって邪念を伝流して来るものであります。
    そもそも人類社会の進歩は相反する二元素の摩擦と融和によるのであります。この理により人間は善悪両面の活動によって力が発生し、それによって人間天賦の使命を遂行し得らるるのであります。故にこの場合、悪といえども言わば必要悪であります。何となれば、本守護神は良心的本質によって善を思い善を行うに反し、副守護神は悪に属するもの即ち体欲の本質を発揮するからであります。体欲とは、所有欲、優越欲、独占欲、各誉欲、贅沢欲等の物欲であります。これを又本能欲とも申します。従ってこの本能欲がある限界を越える時罪悪を構成するのであります。故にこの制御こそ人間社会の秩序安寧を保ち得る条件であります。この理によって本能欲が人間の活動を発生させ、良心がそれを制御する事によって人間の幸福と栄えがあり、社会の進歩があるのであります。しかるに今日までは夜の世界であったため、邪神の力が強かったという事は、正神の制御力が弱かったという意味になるのであります。ところが今度夜昼転換して昼の世界になるに従って、今までとは逆になる結果、善の力が主となり悪が従となるのであります。悪が従となれは、もうその悪は悪ではない事になるのであります。何となれば、善の支配力の下に置かれるからであります。

      昼の世界 善主悪従    夜の世界 悪主善従
           霊主体従         体主霊従


      善と悪

    人間は人間でありまして、神でもなければ悪魔でもないのであります。しかしながら人間には自由があります。それは“人間は神にもなり得れば、悪魔にもなり得る”という自由があるのであります。
    まず善神の意志とは何ぞやと言うに、それは絶対愛と慈悲そのものであります。親の愛を拡大したようなものであります。神には「邪」はなく、「正」そのものが本質でありますが、しかし中には一時的過誤に陥った神もあります。何故、神であって過ちを犯すかというに、正神と邪神とは常に闘争しており、その場合最高級の神から最下級の神に到るまでの階級は百八十一あり、従って二流以下の神は往々邪神に負ける。即ちある期間邪神の虜になるのであります。そうして今日までは夜の世界であったため、邪神の力が強く、正神は常に圧迫され勝ちでありました。世の乱れはそれがためでありました。
    善と悪とは相対的のものであって、善悪不二、正邪一如であります。善があるから悪があります。悪があるから善があるのであります。従って善悪というものは、時所位に応じて決めるべきであります。しかしながら個人でも国家でも、悪は一時栄えても結局は破滅しますが、善の方は一時的には苦しみましても、時が来れば必ず栄えるのであります。しかもこの世で良い事をして置けば、霊界に往っても善人は永遠の幸福者となるのであります。そうして人間が神になるか悪魔になるかを知り得る方法は、見えざるものを信ずるか否かであります。即ち見えざるものを信する人は神にまで向上し、その反対は悪魔にまで堕落する危険があるのであります。人間が悪い事を行わぬという事は、見えざる神様が見ておられるという観念によるからであります。人間が悪い事をするのは、見えざるものは有り得ないと思う心からで、人に見られなければいかなる悪事をしても構わないという観念となるが故に、この思想を推し進めて行く時、結局悪魔にまで堕落するわけであります。従って唯物主義者に真の善人がありようわけがないのであります。もしありとするならば、それは衷心からの善人ではなく、信用を保たんがための打算的か、もし暴露した場合信用を失墜する事を恐れるからで、言わば功利的善人でしかないのであります。これを偽装善人というのであります。この意味において、見えざるものを信ずる人こそ、真の善人であるという事を断言して支えないのであります。

      正神と邪神との信仰の結果

    世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭の者や他人に対する行動の面白からざるものがあります。愛がなく利他的観念が乏しかったり、又は虚偽不正を平気で行う人がありますが、これらは信仰の目標である神仏が「邪」であるからであります。
    神様を信仰するにあたって、至誠をもって神様に仕え、熱烈なる信仰を捧げ、長年月に及んでも病気、貧困、不幸等が絶えず襲いかかり、苦悩の生活から離脱出来ない人がありますが、それは正神ではありますが、月の系統の神即ち一流の神でないため絶対の力がないからであります。
    日の神様は絶対力を御持ちになっておりますが、ただし夜の世界においてはこの絶対力の発揮が出来なかったのであります。月の系統の神は絶対力がないから悪魔に負けたのであります。

      守護神

    人間に宿る霊の内、先天的なもの即ち神の分霊たる霊を本守護神と言い、後天的に宿る動物霊を副守護神と言うのであります。
    この副守護神の主なるものは狐・狸・犬・猫・馬・牛・鼬(いたち)・龍神・天狗・あらゆる鳥類等で、大抵一種類ですが、稀には二、三種類憑る事もあります。
    次にこの本守護神の外に正守護神なるものが常に守護しているのであります。正守護神は祖先の霊であって、人が生まれると祖霊中の誰かが選抜されるのであります。この揚合普通は人霊でありますが、同化霊たる龍神、狐、天狗等の場合もあります。

      各守護神の働きは

    ○本守護神――善性であり良心であります。
    ○副守護神――物欲・本能欲等一切の体欲を司るものであります。
    ○正守護神――神様が正守護神を通じて種々の命令や御恵を与えられるのであります。危険に遭遇した場合等、奇蹟的に助けたり、暗示を与えたり、夢知らせや虫が知らせる等によって守護をするものであります。

      祖霊の戒告

    本来祖霊は子孫の幸福とその家の繁栄を念願しているもので、そのために子孫が邪道や過ちを起さないように常に警戒しているものであります。その手段として種々の災厄、病気等を与える事もあるのであります。例えば不正な富を重ねた場合、火災や損失を与えて消滅させ、罪穢によっては、病気の浄化作用を行うものであります。例えば幼児が感冒のごとき浄化に罹るとする。普通は簡単に治りますが、いかに御浄霊をしでも中々効果なく、特に頻繁な嘔吐発生し、食欲も全然無く、短時日に衰弱死に至るので不思議に思う事があります。その原因は色々ありますが、例えば――父親が人倫の道を外して、一時的享楽にふけり、色欲のため他人に迷惑をかけるというような事によるのであります。それで気付かなければ次々に子女の命を奪う事があります。これによってみても、一時的享楽は大いに慎まなければなりません。又祖霊を祀らない場合なども同じであります。

      死んだ人の悪口を言わぬ事

    死んだ人の悪口を言うと、その死霊が苦しみ、それを止めようとして霊が憑る事があるから、死んだ人の悪口は言うものではありません。

      霊層界

    霊界は天国、八衢、地獄の三段階になっていますが、これが人間の運命と密接な関係を持っているのであります。そうして右の三段階を細別すれば、一段は六十段に分れ、合計百八十段階の層になっております。これを霊層界と申します。しかして人間はこの霊界といかなる関係があるかをお話しましょう。
    人間の霊魂と肉体とが密接不離の関係にある事は、皆様は既に御承知の通りでありますが、実はその霊魂は霊界の生活者である幽魂と、霊線によって密接不離の関係があるものであります(幽魂とは、霊の霊と言っても宜しいです。又霊魂を、肉体の中にあるから現魂と申しても宜しいです。)従って人間の生命の真の根原は幽魂そのものであると言っても宜しいのであります。
    この幽魂は霊層界における百八十段階のいずれかの段階に属しているものであります。しかしながらこの幽魂のいる所は一定の所に止まっているものではありません。即ち浄魂は軽いため上層におり、曇魂は重きが故に下層にいるのであります。
    上層は“健富和”の世界、即ち“天国”であり、下層は“病貧争”の“地獄”世界であります。即ち幽魂が上層にいる程その人はより幸福者となり、下層に行く程より不幸者となるのであります。故に人間の幸不幸の根原は、その人の幽魂が住んでいる霊層界に因る事を深く知る事であります。
    しからば、より幸福者たらんためには、自分の現魂を浄めれば、従って幽魂が浄まる事になり、その居点が上層に行く事になりますから、より幸福者となるのであります。そこで霊魂を浄めるには善行を重ね美徳を積まねはなりませんが、それは相当の時間がかかりますが、ここに一挙に霊層界の数十段も上の方へ上る方法があります。それは「救世教信者」となる事であります。
    本教信者たらんには、まず教修を受け、入信の手続をとる事であります。
    即ち本教信者となれば幽魂は上層に位し、人生観が一変し、智慧証覚が豊かになって、物事の真相をよく掴む事が出来、前途に光明を認め、不安は解消せられ、楽天的となり、初めて人生の意義を知り、安心感を得られるのであります。又物質的には不思議に財物が集まり、不自由がなくなり不幸が減り幸福の面が多くなり、“全く救われた、本当に有難い”という感謝の声は、日々無数に私共の耳や目に入るのであります。
    これで皆様方の幽魂は昨日までの幽魂とは違った幽魂となられたはずであります。そうしてその幽魂の霊層界における居点は一挙に数十段階も上の方に飛躍せられ、霊的地位は大変上位に転移せられたわけでありますから、どうか今後益々魂を浄め、益々幽魂をして向上せしめ、地上天国建設のため御精進なされるようお祈り申し上げます。
    しかしながら、せっかく入信して幽魂を上げて戴きながら、神様に対し御尽くし申し上げる事が足りなかったり、御神示にはずれた言動があっては逆の結果となる事も、充分御銘記あって戴きたいのであります。

      自然農法(無肥料栽培法)

    救世教には、以上御話し申し上げた外に、農業の面においても、自然農法即ち無肥料栽培という大福音があるのであります。これは医学と同様に、今日まで進歩したと信ぜられる農業の行詰り……不作や病虫害、冷旱害等……の原因を解明し、正しき耕作法を説くと共に大増収を図り、人々の真の健康のために、真の健康、清浄なる食糧を供給せんとする農業の大革命であります。
    私共は薬毒を説くと同様に肥料や農薬の害を説き、それを排撃するのであります。
    しかし食糧の問題は、現在一日も忽(ゆるが)せにする事の出来ない問題であるのみならす、肥料や防除薬剤の使用さえ止めれば、あえて信者ならずとも好成績を挙ぐる事が出来るのであります。この事も明主様の御神示によるのは勿論でありますが、本教としても多年の実地経験により確信を得て、本教とは別個に「自然農法普及会」を組織し、その推進に努めております。この自然農法は、その成績がはっきりと、一年、一年と現われて、論議の余地なく、その結果がまた本教の発展に寄与するのであります。
    どうか農業園芸を業とする方、又は関心を持たれる方は、すべからく進んで入会せられ、機関紙、講演会、座談会や実地指導等により、その真理の体験を得られ、この面からも地上天国建設に邁進されん事を希望する次第であります。

      本教の組織と運営

    明主様は本教の教主として、私共の信仰の中心であらせられ、信徒は毎月定められたる日に御本部へ参拝して、御教えの御取次を頂く事が出来ます。そして組織運営の面においては別に教団本部があり、管長以下の理事監事の合議によって民主的に経営され、その下に全国各都道府県はもとより、速くアメリカ等各地に、それぞれ大中教会があって布教活動をしております。皆様もその何れかの会の所属信徒となられた訳であります。
    なお箱根、熱海、京都の各地の、それぞれ環境の最適の地を選んで、地上天国の型として、大造営が進行中であります。明主様の御設計と御監督の下に、各種殿堂の建築、造園はもとより、それぞれ美術館を設置し又は施工中で、各種芸術の鑑賞や、天然と人工の美を楽しむ事により、人々の魂を浄化させ向上させて、真善美全き世界の実現を図りつつあるのも、また本教の特色であります。やがてこれらの施設の進渉により、世界的名所となり、全世界の信者の憧れの聖地となるのも間近い事でありましょうし、更にハワイを始め世界の各地にも造営される予定であります。そしてその何れもが信徒の熱誠溢るる感謝の浄財や、勤労の奉仕によって進められつつあります。
    かくて地球の極東日本に点ぜられた救いの火、これこそ世界人類待望の「東方の光」として、この世のいやはてに、永遠の幸福を人類に与え給うメシヤの神の御救いとして、本教の発展は約束されてあるのであります。

      結び

    最後に一言私達信徒としで忘れてならない感謝報恩についてお話しさせて戴きます。入信して難病を救われたとか、あるいは不時の災難を免れたとか、大難を小難にすまさせて戴いたとかいうようなお蔭を戴いた時、神様に感謝報恩のまことを捧げるのは当然でありますが、日々何の不安もなく、無病息災の折には不断に戴いている御守護に対する感謝報恩を忘れ勝ちであります。自動車にはねられて奇蹟的に助かったというよりも、自動車に触れもしなかったという方がはるかに有難いのであります。つまり日々無事安心立命して暮させて戴いているという事が最も偉大なる御蔭なのであります。それに対する感謝の御奉仕が神様に通じてこそ、次々とより大きいお蔭を戴けるのであります。これをたとえて申しますと、種蒔と同じであります。お蔭も戴きっぱなしで、御報恩という事がなければ、種を蒔かずして豊作を期待するの愚と等しく、次々のお蔭は戴けるものではありません。神様へ御奉仕されただけは、何らかの形で数十倍、数百倍になって吾が身に還って来るという事を銘記されたいのであります。
    これをもって、救世教信徒としての教修の全課程を終了致します。今後皆様は御教えを素直に実行に移され、明主様の地上天国建設の使徒としての自覚と誇りをもって、各々の使命に邁進して戴きたいのであります。

〔第 二 講〕御浄霊に就いて

〔第 二 講〕

      御浄霊に就いて

    この御浄霊は、現在の常識や科学では到底理解する事は出来ないのであります。たまたまこの御浄霊で病気が治った方が他人にこの御話をすると、大抵の方は「そんな馬鹿な事があるかしら、これ程科学が進歩した世の中に、そんな簡単な事で病気が治るなんて、それが本当だったら医者も薬も要らないではないか。又それ程治るものなら、こんなに病人の多い現在であるから政府が採用するはずではないか」と言われるでありましょう。まことにごもっともな事であります。ですが、現在まで何世紀にわたって築き上げられた物質科学を基本として、あらゆる制度や施設が作り上げられている現状でありますから、致し方ないのでありまして、私共のこの御道を世の中に弘める事は並大抵の容易な業ではありません。と言って現在御承知のごとく病人が増えて、御医者様へ行ってもいかに薬を浴びる程飲んでも、その他宗教へ走り、民間療法等にたよっても、病気は治らないという方々が随分沢山おありで御座います。私共は決して他の療法をけなすものではありよせん。外で病気が治る所が御座いましたら、どうぞ遠慮なく自分の信ずるところに行かれるか、又御信じになる事をなすってちょっとも差支えはないのであります。私共は皆様の信じられる事にまで決して干渉するものではないという事を、あらかじめ申し述べて置きよす。しかし、自分はあらゆる方法をやって来たが、どうも病気は治らない。広い世の中だからどこかに自分の病気が治る所があるだろう、病気が治る真理もあるはずだ――と言って、この真理を求められる方々に対して教修会を開いたので御座います。従来は、今申し上げました通り科学によってすべてが作り上げられていますから、あらゆるものは科学に依らなければ迷信だ、邪説だと言って片付けていますが、私はそうは思いません。科学によって解決なし得るものと、科学では解決が出来ないものとの区別があるという事を知らなければなりません。
    現代科学の進歩そのものは、原始時代からの歴史と比較しての事であって、今後数百年数千年後の人々が二十世紀の現代科学を批判する時は、その余りにも幼稚なものであった事を嗤(わら)うでありましょう。それはちょうど我々が今、原始時代の文化や千年前の文化を嗤うのと同一であります。私共の所説は現代の文化より千年も先に進んだ文化かも知れません。私ははっきり申し上げます。人間の生命に関してのみは、現代の科学の理念では解決が出来ないという事を……。何となれば、人間なるものは肉の塊りではない、単に肉体だけで作られてはいない、人形ではない、と言うのであります。肉体というサックの中に目に見えない霊魂が入っているのであります。この根本が分らぬ限りこの御浄霊の原理はお分りにならないのであります。重ねて申します。肉体というサックの中に目に見えない霊魂が入って、即ち霊肉の密合によって生命があるのであります。霊と肉体と別々に離れてしまえば、それは死であります。
    よってこの理念によれば、前にも申し上げました通り、肉体の方にある毒素の部分は、霊魂の方にそのままの「曇り」があるものであります。故にこの御道で病気を医す根本原理は、この罪魂の方にもある曇りをいかにして解消する事が出来るかという点であります。
    世界救世教の教主であらせられる明主様には、この霊魂の曇りの解消“いかにしてこの解消が出来るか。この解消が出来さえすれば万病を医す事が出来る”即ち医術の完成である事を、御覚りになられたのであります。この事が根本であります。病毒の根原であるこの曇りは物質ではない、目に見えない霊的のものである。従って到底現代科学ではどうする事も出来ないのであります。何となれば、目に見えないものに対し、物質をもってしてはどうする事も出来ないのであります。又神仏を拝んだり加持祈祷でこれが解消出来ましょうか、これも到底出来るものではありよせん。しからばいかにして解消が出来るか。それは目に見えざる力である霊力であります。目に見えざる神秘光線であります。明主様こそその力の主であらせられよす。
    この目に見えざる“光”をなお一層解説してみますと――これは神様の御光であり、御神力であります。この御神力の元素とは何か――
    それは――
          太陽の霊気たる  火素――と
          月の霊気たる   水素――と
          大地の霊気たる  土素――とであります。
    この三つの元素の集合体であります。この三つの元素の中で、一番多量で主たるものは火素であります。故に御神力即ち火素と申しましても宜しいのであります。この目に見えざる火素の放射によって霊魂の汚れである曇りを解消させられるのであります。
    ここに初めて人類が幾千年前から悩まされていたところの病気に対する解決が出来たのであります。鳴呼――何という尊い有難い御発見ではありますまいか。逆に、この大発見がなかったならば、全人類は病気に悩まされ、病人は益々多くなって、その結果はどうなるでありましょうか。考えても肌(はだえ)に粟を生じます。現在病気で悩んで揺られる現代社会を御覧になられれば御判りの事と思います。飜(ひるがえ)ってつくづく世の中の人々の事を考えでみまするに、本当に何らの不安もなく安心して日々を送っている者はほとんど無いと言っても、言い過ぎでは御座いませんでしょう。その不安の中で、第一に考えられるのは、申すまでもなく病気の事であります。どんな人でも、いつなんどき病気に罹るかも知れない。一時間後に風邪を引くかも知れない、風邪を引けば肺炎になるかも判らない、あるいは結核の初期であるかも知れない。今晩あたり盲腸炎が発病して七転八倒の激痛で苦しむかも知れない。明日あたり腸チフスになるか、又は原因不明の病気に罹るかも判らない。子供は、生命とりという恐ろしい疫痢、ジフテリヤ、脳膜炎等の重症に罹って二、三日で彼世(あのよ)へ行くかも知れない。又年寄りは年寄りで、今にも脳溢血から中風となり、半身不随のまま何年も床から離れられないような悲惨な運命になるかも判らない。もしか家族の内誰かが伝染病に罹って入院隔離されるかも判らない。そればかりではない。今日のように医療代が高くては、治療代や入院料がどの位掛るか判らない。それも短期間で治ればいいが、もしか長期間にでもなったら、入院料のために長年辛苦して貯めた貯金が無くなってしまい、たとえ病は治っても路頭に迷うようになるかも知れない。しかしそれでも生命さえ取止めれば又稼ぐ術もあるが、運が悪く不具者になるか死んでしまったら一体どういう事になるだろう。仮に主人であった揚合、遺族は死後どうして暮しを立てるだろう。又自分としても、計画や事業半ばにして終りとなるし、未だ男盛りの年齢であるのにこの世を去るとは実に残念だ。又妻子と今愛着の絆を断たれるのはどうしても我慢が出来ない、というような事態が起らないとも限らない。これら色々の事を考えます時、病気に対する恐怖感は絶えず鉛のように重くブラ下っているのは、およそ何人といえども例外はないでありましょう。
    以上述べよしたような恐ろしい人生である以上、この不安から解放されないとしたら、釈迦が『この娑婆は火宅であり、人間は生病老死の四苦から免れる事は出来ないから諦めよ。それが悟りである』と言ったごとくであり、数千年の歴史を見ても全くその通りであります。
    今私がこの病気の不安から絶対に解放される宗教が、救いの力が生まれたと言っても――そんな馬鹿な事があるはずはない。こんなに世の中が開けている現在であり、科学は素晴しく進歩し、原子爆弾、テレヴィジョン、殺人光線等の現われる現在ではないか、今そんな魔法使のやるような、人心を迷わすような旨い話はあろうはずはない、君の頭はどうかしている――と言い、まず狂人の一歩手前位にしか思われますよい。ところがあに計らんや、右のごとき宗教、救いの力は確かに生まれたのであります。そう申しましても、人々はまず一応も二応も疑うどころか否定するに決っておりますが、しかしそれがもし真実であったら、真実と知ったらどうなさる、と言いたいのであります。さあ大変どころの騒ぎではないのであります。世界は引繰返るでありましょう。その中でも皆様のように運のよい方は、まあまああの人があんなに真剣になって奨めるので、ともかくも一度研究してみよう、と言って救世教に入信される事になられたと思います。又人によっては頭から、“そんな馬鹿げた事があって堪るものか、オレはそれ程馬鹿でもないし低級な人間ではないよ”と言って鼻の先で笑い消してしまう人々が大多数を占めているでしょう。こういう人々は、まず華厳の滝か三原山へ飛込む人と大差ないまことに不幸な人々と言うべきでありましょう。こんな事を次から次へと考えます時、こんな有難い事を自分一人だけ知って置いて良いものだろうか。世の中には自分と同じように苦しんでいる人、悩んでいる人は沢山あるはずだ。この人達にこの事を知らさないで置いて良いものであろうか――と、それからそれへと考えて来ますとジッとしているわけにはゆかなくなって来ます。救世教の教えは、宗教の宗の字も知らなくても分る、医学の医の字を知らなくてもこの医術は分る、実に簡単な教えであるから、誰でも分るし、誰にでも出来る教えである。そう考えると益々ジッとしているわけにはゆかなくなって来ます。一つ、命のある限りこの道に御奉公申し上げたいと決心せざるを得なくなるのであります。
    さて病気を治す事は先程も申し上げましたように、実に簡単であります。それは御力を戴きさえすれば、今直ぐ誰にでも万病を医す事が出来るのであります。この事を疑われる方は致し方がありません。それはお砂糖は甘いものであると言っても、そんな馬鹿な事はないと言って、実際になめてみようとしない人と同じであります。この簡単な原理を会得しようとする人の心構えは――今までの自分の理屈(先入観念)を捨てて白紙の状態になる事であります。それ故、学問の低い人でも早く原理が掴めるのであります。こんな結構な事はないと思います。お医者様のように学問がなくては理解が出来ないような医術であったら、到底大衆を救う事は出来ないのであります。
    医学は、学の力で人間の体を治そうとするのであります。
    この浄霊は、神様の力で人間の霊も体も治そうとするのであります。
    これから私が実際に御浄霊を致しますから、御見学を願います。そうして御浄霊の御修得上、実際に自分も御浄霊を受けてみる必要があります。なぜならば、柿や林檎の味を説明しても、実際に食べてみなければ判らないのと同様であります。

    (次に御浄霊の事に就いて説明をする。)
    一、霊光放射(神霊放射能)の方法
       (掌を人体より「二尺離して、自然に、力を抜いて翳す。)
    二、御浄霊をする人は上座に坐って、メシヤの神の代理という気持になる事。
    三、患者の前額部を浄める。
    四、基本になる背面腎臓部、背中、肩、後頭部等の御浄霊を教える事。
    五、発熱の個所を教える。
    六、毒素を知る方法――皮膚の色、恰好の悪い所、熱のある所を見、本人の苦しい所を聞く事。
    七、霊的の病気又は重病の人には、祝詞又は善言讃詞を奏げる事(ただし数回奏げても可)

     (第二人目よりは御浄霊を始める。)
    御神力即ち火素の放射によって、霊魂の穢れである曇りが溶けると、肉体の方の毒素は身体の外部に排泄されるのであります。その形式は、
    尿や下痢に混って出る場合、
    咳嗽によって吐痰する場合、
    オデキになって出たり、目脂、鼻汁、出血、盗汗等になって出るのであります。
    御婦人の白帯下(こしけ)も毒素排泄の方法です。
    とにかく、出るものは何でも結構です。良いものは出ないという事を知って戴きたいのであります。
    ちょっとここで御注意致しますが、オデキ等が出来て骨が腐ると言われる方がありますが、生きているものは決して腐るものではないという事も知って戴きたいのでありよす。
    毒素は膿と毒血の二種ありまして、詳しい事は次に申し上げます。

      病気とは何ぞや(浄化作用)

   病気というものは、一口に言えば人間の身体の掃除であります。
    ○家の中に住んでいれば毎朝掃除をする、時々大掃除もします。
    ○時計でも機械でも掃除が必要であります。
    ○天地間にも掃除があります。雨が降って汚物を洗い流し、天日で乾かし、風が吹いたり、雷が鳴ったり、雪が降ったりするのは、掃除であります。
   そのように人間にも掃除が必要であります。まず外部に溜った垢は風呂に入って洗います。身体の内部に溜った汚物の掃除は大自然がしてくれます。
   人間は生きてゆく上にはどうしても汚物が溜るものであります。その汚物即ち人間の毒素には先天的のものと後天的のものとがあります。先天的毒素は、遠く祖先から受けた毒素も近くは両親から受けた毒素、又母親の胎内にいた時臍の緒から吸った母親の汚物等で、これを然毒と申します。後天的毒素は、腎臓萎縮による尿毒と、病気をする度毎に飲んだ薬物の毒素即ち薬毒で、これが一番恐ろしいのであります。
   この三つの毒素が身体の内部に溜るのであります。この溜る場所は、神経を多く使う所と背面部とであります。これらの毒素は、人間には不断に浄化作用なるものがありまして、それぞれの局所局所に集溜転結するものであります。これを第一浄化作用と申します。この第一浄化作用は熱を伴なわないので、苦痛もさ程感じないし、病気の感じがしないのであります。
   次に、ある程度局所に溜った毒素は、どうしても体外に排泄する作用が起るのであります。これを第二浄化作用と申します。この第二浄化作用を起すためには、この固っている毒素を溶かして液体化しなければ外部へは出せませんので、「発熱」という事が必要であります。
   この発熱によって身体の中に固っていた毒素は溶け液体化するのであります。その液体化した毒素が身体外に排泄せられる時、神経を刺戟して痛苦とか不快威を感じ又は食欲不振等となるのでありますから、一般人はこれを病気と言って恐れるのであります。
   救世教にては、病気とはこの発熱によって毒素が溶けて、外部に出るまでの一時的の痛苦とみるのであります。浄霊によって大いに楽にして、少しの痛苦は我慢すれば、毒素が外部へ出てしまい、下熱して痛苦も去り、そして体内の毒素はそれだけ減ったのであります。だから病気をする前よりも健康になり、それだけ長生が出来るというのであります。故に、熱程有難いものはない、貴重なるものはない――というのであります。
   熱が高ければ高い程、苦痛が強ければ強い程、毒素の溶ける量が多いから結構というわけであります。故に病気に対する不安がなくなるどころか、病気になって早く体内の毒素を出して真の健康体となりたいと欲するようになるのであります。
   元来寿命を縮めているものは体内の毒素であります。その毒素が減っただけ長生が出来る計算になります。故に私の方では、人の寿命を延長させる事が出来るのであります。何という有難い事ではありませんか。そこで、病気になりたい、浄化を受けたいという気持にすらなって来ます。即ちなるべく高い熱が出れば良い、下痢を戴きたい、風邪を引きたいという気持にすらなって、全く病気の不安から逃れる訳であります。しかし一面その浄化は軽くあって欲しいというのがまた一般的の考えでもあります。
   その一番軽くて結構な浄化は風邪を引く事であります。風邪を引くと鼻汁や痰や尿に混って毒素が出てくれます。よって万病に罹らぬ事になるので、風邪程結構な有難い病気はないというのであります。これ程有難い風邪を世人は恐れ、せっかく毒素を出そうとする作用を、薬物で出さないように抑えたり、氷等で固めなどして毒素を出さないように懸命に努力するのでありますから、何という無智と言おうか、実に馬鹿々々しい愚かな事で御座います。ちょうど原始時代に火の利用を知らなかったため、物を煮たり焼いたりして食べる事を知らなかったのと同様に――現代人は火素の発見が出来ないため、この火素によって病気を治す方法を知らないのであります。火の利用を知れば、簡単に煮焚が出来て、食物を美味しく食べる事が出来る。それと同じように火素の発見で――病気になれば火素の放射によって病毒は解消して、簡単に病気は治るのであります。物の煮焚と同様、病気も浄霊で易く治す事が出来るのであります。物を煮るのに学問や理屈を知らなくても出来ると同様に――病気を治すのにも学問や理屈を知らなくても出来るのであります。文化が進んだ進んだと言って誇っている現代人も、あまり原始人を嗤(わら)うわけにはゆかないでありましょう。それで私共のこの文化は、さきに申しましたように千年も先に進んだ文化だと言っても、あながち現代人を馬鹿にした事にはならないでしょう。
   要するに、病気をする度毎に健康になって寿命が延長されるのであります。およそ今までの説と反対でありますから、中には吃驚せられる方も御座いましょう。異端邪説と言われる方も御座いましょう。人を馬鹿にするにも程があると言われる方も御座いましょう。しかし運の良い方は、これが真理だ、到底現在までの人智では発見の出来なかった説だ、これは神様の御声である、と感心する方も御座いましょう。それは各自の心相応に解せられるのであります。さてここで ――
   今一つ重大な事をお話します。病気即ち浄化作用によって毒素が身体の外部に出たという事は、身体の根本である霊魂の方の「曇」が減った事になります。魂の曇りが減れば魂が光り出して来て善良な心の持主となり、性格が善い方に変って行く事であります。例えば――
    ○大酒飲は小量の酒で済むようになり、
    ○怒り易い人は穏かな人となり、
    ○同情心が増し、人を愛する心が起って来ます。
    ○争を嫌い平和を好み、悪を憎み善を楽しむようになります。
    ○頭が良くなり、善悪がはっきり分るようになり、従って仕事もうまく行き、家庭円満になって来るのであります。
   今までに味わった事のない味、それは――人を幸福にしてやる自分の幸福さの味――それを初めて知る事が出来るようになります。(例を挙げて話す事)
   かくのごとく知らぬ間に、いつの間にやら自分の性格が変ってゆきますから面白いのであります。しかも自分が浄まってゆくと、祖先が浄まって参るのであります。祖先が浄まれば子孫は幸福になって来るのであります。なぜなれば祖先と子孫とは霊線という目に見えぬ縁の糸でつながっているのであります。それのみならす、交通事故や工場における機械による受難、災害、盗賊の被害、地震、洪水等の災害からも逃れられるのであります。それはそうした事故もやはり魂の曇りの浄化であるからであります。
   もう一度今お話し申し上げた事を申し上げますと、病気をする(即ち浄化する)という事は、
    ○体内の毒素が減って、より以上の健康体となり、従って長生が出来る。
    ○魂が浄まって善良な精神になる。
    ○魂が浄まれば幽体が高くなって、色々な災難を逃れる。
    ○祖先が救われ子孫が幸福になる。
    ○人を愛し人に親切を施すようになるから、物質に恵まれ、人から愛されるようになる。
    ○健康体になるから勤勉家となり、よく働けるようになる。
    ○神を信ずるようになるから、行に裏表がなくなる。
    ○家庭は円満となり、病貧争がなくなり、小天国が出現致します。そうして諸々の災難から逃れられるのであります。
   その他数え挙げれば未だ未だ沢山ありますが、これらの事が国家全体に及んだ時、初めて日本の再建が出来、まず日本全体が天国となり、これを全世界に及ぼせば、地上天国は出現するのであります。ここで病気に対する解釈が違うと、一方では実に恐ろしい結果となります。
   病気に対し今までのように悪化作用という解釈をすると、今日のような地獄世相が生まれるのであります。何という重大な事で御座いましょう。病気を悪化作用と解釈しますと――即ち、せっかく大自然が身体の内部の毒素を外部へ出そうとして病気という浄化作用を行おうとすると――その浄化を、薬物や他の方法で抑えて外へ出さないようにする――と、熱によって液体化した毒素は再び固まり、その上薬毒が加わり、病気をする度毎に益々毒素の量が増して来て、身体はいよいよ弱くなり、寿命が縮まり、国家的に見れば国民の体力は弱り、ツンボや盲やビッコ等の不具者が多くなるのであります。
   これは肉体の方面だけですが、一方精神方面はどんな悪影響があるかというと――
   魂が曇るから、良心が冴えなくなり悪心の方がのさばるようになる。大酒家となり、争を好み悪事を好む。善を嫌い怠け者になり、頭脳が悪くなり仕事が旨くゆかなくなる。国家からみれば生産が落ち、道徳も地に堕ち、自分さえ良ければ他人を顧みないという暗黒世界が出現するのであります。従って祖先も曇って来て子孫は不幸となり、一家は病貧争の絶え間がなくなり、これが国家全体に及び、ひいては全世界に及べば、今日のごとき地獄世相を出現するようになるのであります。これは理屈ではありません。現実であります。日本及び全世界の現状はまだ戦争こそしていませんが思想的には大戦争をやっているのであります。戦勝国は益々軍備の充実を図っている現状であります。重ねて申し上げますが、地獄世界が出来るのも天国世界が出来るのも、この病気に対する解釈一つに因るものである事を御銘記ありたいのであります。
   “病気は浄化作用なり”という解釈をすれば、即ち地上天国が出現し、“病気は悪化作用なり”と解すれば、全世界は今日のごとく地獄世界となるのであります。これ程重大な事は他にありましょうか。
   どうか皆様早く目覚めて下さいませ。これは急務中の急務であります。目覚めると申しても、ただ病気は浄化作用なりという事であります。ただこれだけの事であります。
   “病気は浄化作用なり”“病気は浄化作用なり”ただこれだけの事が「地上天国建設の土台」となるのであります。
   今まで申し上げました事に対し御納得がゆかなければ、御神力即ち「御守様」を戴かれ、実際に人の御浄霊をなさる事によって、この事が良く御理解になるようになります。
   だから最初申し上げました通り、この教修は簡単で、老人や子供であろうと、誰にでも直ぐ分る事でありますが、一方あまり簡単だから分り悪い点もあるかも知れません。白紙にさえなれば直ぐお分りになれるので御座います。決して誤魔化しものでは御座いません。皆様の前で病人が治ってゆく現実を御覧になればお分りになると思います。あまり良く治るので手品のように思われますが私共は「種」をお教えしているのであります。その「種」は、“病気は浄化作用なり”という事であり、この浄化中の毒素を早く溶かすために、御神力即ち火素によって溶かす事であります。
   その火素とは、最後の三日目に[  ]先生より御渡し下さる「御守様」から出る御神力であります。
   この御守様を首からかけて御浄霊をすれば、神様の御光は人間の霊体を通して手から放射されるのであります。そこで皆様は万病を治す事の出来る神様の道具になられるのであります。
   ちょうど、放送局がラジオのセットを作らせて放送を一般人に聞かせるように、吾々はラジオ屋でありましで、信者というラジオのセットを作らせて戴いているようなものであります。
   故に明主様から霊波が出て、皆様方が拝受なされた御守様を経て、皆様方へ霊波が伝わってゆくのでありますから、皆様もどうか良いセットになって戴きたいのであります。
   この事を充分御理解になるよう御願い致します。
   これで大体病気の解釈と治病の原理をお話した事になります。

      薬毒について

    前項に御話し致しました通り、病気とは体内の毒素排除の過程でありますが、その毒素が先天的の毒素、後天的の毒素であると申しましても、それは前者は先祖の用いた薬毒の遺伝であり、後者は生まれてこのかた体内に入れた薬毒であります。つまり病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事が我救世教の主張であります。今までは薬という毒の作用によって、病気症状が減ったから治った様に見えただけで、実は治ったのではないのです。しかも人間は食物として定められた物以外の異物は、完全に処理出来ないようになっているもので、その薬は体内に残るのであります。これが薬毒であって、日を経るにつれ、神経を使う局所に集溜し固結します。そして何かの機会に自然排泄作用が起る。これが浄化作用即ち病気でありまして、考えてみれば、人間はせっかく起った天の恵みである浄化作用を、薬毒で抑えつけ、固めたのはよいが、時を経てまたその薬毒の浄化つまり病気が起る。というこの原理さえ分れば、いかに医学が進歩し新薬が創製されても、病人は減らないどころか益々増えて行く現状の御理解がゆく事と思います。
    なお薬毒というと、現代人は、現在の激烈な洋薬ばかりを連想しがちでありますが、漢方薬も同様、否、分量が多いだけに、執拗な浄化を起し易く、寿命を縮める原因となっている事に、気付かねばなりません。
    我救世教は、この薬毒の恐るべき事を徹底的に唱え、人間が薬さえ入れなければ、一生涯病苦の味は知らなくで済むのだ、浄霊の効果も、その薬毒の除去にあるのだ、この世から薬を失くせ失くせと叫びつつ、あらゆる迫害に抗しつつ今日まで参ったのであります。

      黴菌について

   人間が万物の霊長である限り、この世の中に存在するどんなものでも、人間に不必要なものはないはずであります。
   人間に不必要になったものは自然淘汰されて、滅消さるべきが「真理」であります。故に、人間が無用とか有害とか言うのは、そのものの存在理由を知らぬためであります。この意味において、あらゆる黴菌といえども、人類の生存上必要があるから存在しているのであります。
   即ち、その存在理由は――
   黴菌は掃除夫です。ちょうど座敷を掃く時に、濡れた新聞紙や茶殻をまいて、塵埃を吸わせるように人間の血液の浄化作用をなお一層促進させるために存在する掃除夫の役目をするものであります。浄血であれば、即ち毒素さえなければ黴菌は働きません。故に殺菌法をする事は体のために有害であります。殺菌するには毒を用いなければならないし、又到底体内の殺菌は不可能な事であります。

      栄養に就いて

   日本人は御飯が一番栄養になるのであります。その御飯を美味しく食べるために副食物があるのであります。副食物は野菜を主とし、魚、肉食を従とすれば宜しいのです。今日の栄養学の誤りは、食物の研究のみを主とし、食物を受入れそれを処理すべき人体機能の研究を忘れております。ですから栄養学を実行すれば体は弱って来ます。又実行も中々出来るものではありません。要するに自然に要求するままの食物を摂ればよいのです。嫌いな物を我慢して食い、好きな物を我慢して食わぬことは愚かなことであります。人間は粗食する程丈夫になるのであります。それは体内の消化機能があらゆる必要な栄養を作り出そうとして働きが旺盛になるからであります。
   なお病人には本人の食べたい物を食べさせれば宜しいのですが、重病人はなるべく菜食にさせた方が血が早く浄まり好結果を得られます。
   「真の健康と擬健康」について御話しましょう。
   現代人は真の健康者はほとんどありません。全部病人であります。ただ病気が今起っている人と、未だ起っていない人とがあります。未だ病気が起っていない人を普通健康と言っているだけであります。私共はこの人達を擬健康者と呼んでいるのであります。故に、いつどんな病気が起るかも知れないのであります。
   世間でも“人間は病の器だ”とか、“四百四病を持っている”などと申しますが、これはある意味では本当であります。けれども毒素さえなくなれば“人間は健康の器”となるべきであります。
   それで日頃この御浄霊を受けていると、病気が起った時簡単に治るのでありますから、精々御浄霊を受けると良いのです。ですからお互同志で御浄霊のやり合いをすることは大変結構でありますが、浄化にも軽重がありますので、支部に行って逐次指導を戴く事が肝要であります。

      病気と大自然

   神様から、尊い使命を受けてこの世に生まれて来た人間が健康を害ねるという事は、大自然の法則即ち神意に背いているからで、それはいかなる点が反しているか――という事を探求し、発見する事こそ根本的解決法でなければなりません。
   その反自然とは何ぞやと言えば、即ち大自然が行う「浄化作用」の停止をした事であります。天地間における天文現象をみる時、地上に汚穢が溜れば、風で吹払い、雷火で焼き、雨で洗い浄め、天日で乾燥させるのであります。故に人間の健康も病気も飽くまで大自然の摂理を基本として考え、解決すべきが本当で、それが「真理の具現」であります。
   それで私共の御浄霊は飽くまでも大自然を本とした方法であります。自然療法であり、神霊療法であります。

      内臓の三大機能

   内臓の中で三つの大切な機能があります。それは心臓と肺と胃の三つであります。
   人間は大自然と密接な関係があり、否大自然の中に呼吸し生育し、しかして死ぬので――大自然の一部でもあります。人間を小宇宙とも申します訳であります。
   この宇宙の構成は、最初に御説明申し上げた通り、霊界、空気界、物質界の三つから成立しでいるのであります。それで――
   “心臓”は、霊界から火素を吸って体温を保っています。心臓の鼓動は火素を吸っているためであります。
   “肺”は、空気界から空気(実は水素)を吸っているのであります。
   “胃”は、地球上に生じた食物を食べ、土素をとって肉体の栄養を保っているのであります。
   現代人は空気と食べ物とは知っていますが、体温を保っている火素を知らないのであります。又心臓の真の使命も知らないのであります。しかしながら心臓は一番大切だという事は知っているようで御座います。
   食べ物にも善いのと悪いのとがあり、空気にも善いのと悪いのとがあるのと同様に、霊気にも上級と下級とがあります。例えば――
   明主様の御側が霊気は一番高く、総本部、教会、一般家庭内に光明如来様を御祀りをしてある部屋」という風に上中下の階級があるものであります。それで、よい霊気に触れる――否戴く事が健康法の第一になるのであります。それで一軒の家に光明如来様を御祀り申し上げると、光明如来様の霊気がその家に遍満する事になって、御蔭を戴ける事になるのであります。
   これから病気症状について解剖してみましょう。

      病気症状

   まず病気症状としては、発熱、痛み、痒み、不快感、嘔吐、下痢、浮腫、盗汗、めまい、不眠、憂鬱、痺れ、咳嗽、のぼせ、耳鳴り、冷え、便秘等であります。以下この一つ一つについて説明致します。

   発 熱――心臓が火素を吸収しで体温を保っていますが、病気になって発熱するのは、毒素を溶かすために体温より以上の熱量を必要とするから、心臓の鼓動が頻繁となるのであります。即ち脈が早くなるのであります。

    痛 み――発熱によって毒素が溶けて、その液体化された毒素が外部に出ようとして出口を求め、その方向に進まんとする運動が神経を刺戟するため「痛む」のであります。その痛みの原因はことごとく薬毒に因るものであり、多種多様の痛みは、多種多様の薬剤によるのであります。

    痒 み――この原因は、薬毒、然毒、食餌中毒の三種であります。痛みと比べて中々侮り難いものであります。彼の疥癬のごときは、自殺までしたい程の苦しみのあるのも御座います。又ノミや蚊、南京虫等に刺された時もありますが、これらは普通の病気症状とは違い、体内の毒素が誘発されるためであります。又漆等のかぶれも同様であります。

   不快感及び嘔吐
    不快威といっても一様ではありません。吐気、痙攣、船車の酔、憂鬱感等であります。
    “吐気の原因”
     一、脳貧血に因る――胃の反射作用のため。
     二、高い熱のある時。
     三、食べ物の中毒。
     四、薬剤のため。
     五、幽門部(胃から腸に行く途中にある)に毒素があって、幽門を狭窄している場合。
     六、妊婦の悪阻――胃の外部に固まっていた毒素が子宮の膨脹によって外部へ排泄されんとするためであります。
     七、脳に内出血した時(脳溢血、脳震盪の場合。)
    “痙 攣
     これには霊的と体的とがあります。霊的は霊の憑依により、体的は高い熱が出る時の悪寒によるのであります。
    “船車の酔”
     胃の外部に毒の固まりがあって、それが動揺によって少しずつ溶けて胃の中に滲透するためであります。
    “憂鬱感”
     霊的の場合、又胃の不活発の場合、又黄疸、脳貧血、肩や背中の凝り等の場合であります。

    下 痢――下痢は急性と慢性とがあります。
    “急性下痢”は食べ物の中毒、即ち食中毒であります。又その他に赤痢的症状の下痢、即ち一日に十数回から数十回に及ぶものさえあります。勿論水便ではありますが、血液の混入する事もあり、腐った肉の塊りのような膿や毒血が下る場合もあります。御浄霊を施せば何ら心配はありません。
    “慢性下痢”は数カ月、数年に及ぶものさえあります。大抵腸結核と診られますが、これは腎臓萎縮による尿毒が常に腹膜に溜結し浄化するためであります。

    浮 腫(むくみ)
   普通は腎臓萎縮又は膀胱の故障で、腎臓萎縮の方は一般的「浮腫」の原因であります。重症は全身的、軽症は局部的(例えば左右いずれかの半身、又は下半身というような「浮腫」であります。)
    一、全身的の湯合
    ○よく女学生に多い固肥りは一見健康そうにみえるが、さにあらすで、本人は非常に疲労しやすく、動悸、息切れ、身体が重い等々の故障があるのであります。この原因は、尿毒が全身的に少量ずつ溜積し、それが長時日にわたって固まるので、本人は気が付かないのであります。故に少量の食事を摂るにかかわらす肥るのは、右の理によるのであります。
    ○膀胱と尿道との境に結石がつかえ、そのため尿の流下が妨害されて浮腫の原因となる事もあります。
    二、局部的の場
     即ち顔面、片腕、脚等の「浮腫」は、その局部にあった毒素の浄化溶解のためであります。
    ○“死”の信号
     病気が重症に進む場合、脚の甲に「浮腫」がありますと、これは死の信号とも言うべく、まず快復困難とみるべきであります。
    ○脚気の浮腫――膝から下に限るとみていいのであります。

    盗 汗――医学では疲労のためと言いますが、これは嘘であります。浄化作用の一種で、熱によって溶けて液体化した毒素が毛穴から出るのでありますから、結構な事であります。

    めまい――医学では不明とされています。右側の後頭部(延髄部)に固まり並びに頸肩の凝りがあるため、眼球へ血を送る血管を圧迫するためであります。又眼球の付近にある毒素の浄化作用に因る事もあります。

    不眠症――脳貧血を起すため、くだらぬ事を考え勝ちであります。又脳の前部及び中心部にある毒結の浄化の事もあります。

    憂鬱症――大抵頸や肩の凝りが原因です。
    ○子供が憤(むずが)るのは肩の凝りが主であります。
    ○霊的の場合もあります。
    ○頭の浄化熱による場合もあります。

    麻痺(痺れ)――脚気が最も多いですが、その他の場合は大抵は注射の薬毒が原因であります。

    咳嗽(がいそう)――これは痰を体外に出さんがためのポンプ的作用であります(体のどの部分からでも出ます。)くしゃみは鼻汁を出さんがためのポンプ的作用であります。

    冷 え――
     一、局部的発熱に因る悪寒と、
     二、局部的毒結のための血液の不循環とであります。

    便 秘――この原因は腹膜部に毒結がありまして、それが直腸を圧迫し、そのため糞便が直腸の管を通過し悪いためであります。便秘症の人は常に下剤を服用するが、これはいけないのであります。又、小児の便秘は霊的のもあって、これは便秘症の人の生まれ変りであります。

    血 痰――毒血が少量ずつ痰に混るのであります。ちょうど腫物の破れる時膿に血液が混るのと同様の理であります。

    喀 血――毒血が排泄されんとして肺の外の局部に血管の亀裂を生するためで、脳溢血の場合と同様でありますが、脳溢血は脳に近接する血管が亀裂するのであります。その毒血はどこかはけ口を求めで出るもので、痔出血や赤痢等も同様であります。

   以上で大体病気症状についてお話申し上げましたが、ここで病気と霊、即ち霊的病気についてお話申し上げましよう。


     病気と霊

    病気とは浄化作用の発生と、その過程である事を御説明しましたが、故に霊に因る病気の相当多い事も知る必要があります。勿論浄化作用と密接不離の関係がありまして、例えば死霊が憑依する場合は、その病人の霊体の曇りに憑依するのであります。でありますから霊体がある程度浄化されるならば、肉体の病患は無くなるのみか、死霊の憑依も出来なくなるのであります。なお死霊が憑依する場合は悪寒を感じ、生霊の場合は反対に温熱を感ずるものであります。
    次に霊的病気について例を挙げて説明してみましよう。

    肺結核――誤れる医療のためと霊的と、この二つが真の原因でありまして、家庭内で子女の一人が結核に罹って死亡すると、間もなく兄弟姉妹の誰かが結核に罹り次々と死亡する。又夫婦の一方が結核のため死亡すると、暫くすると他の一方が罹病する事がある。この場合結核によって死亡した霊が霊界に往き孤独に堪えにくいため、生前親しんでいた者に憑依して、自分の方へ引寄せようとする。その憑依の場合結核症状となるのであります。

    精神病――全くの霊的疾患でありますが、その初期は例外なく不眠症になるものであります。ここでちょっと血液について説明致しましょう。霊が物質化しているのが血液であります。故に血液に流れている力の源が霊細胞であります。従って純血であれば霊細胞は濃度であり、貧血又は濁血であれば霊細胞は稀薄であります。分り易く言えば、霊細胞が充実し十の揚合は絶対に憑依は出来ないのであります。その濃度が稀薄になるに従って憑依霊の力が強くなるもので、例えば本霊が四で憑依霊六となった場合に、本格的精神病となるのであります。この場合の憑依霊は大部分が狐霊で、稀には他の霊もあります。

    癲 癇――ほとんど死霊の憑依で、発作が起ると死の刹那の状態を現わすのであります。泡を吹くのは水癲癇で、これは水で死んだ霊。火癲癇は焼死者の霊。又脳溢血で急死した霊。その他変死者の霊の憑依であります。

    夢遊病――発作が起ると自己意識を失い、家を飛出し、所定めず彷徨するというまことに始末の悪い症状でありますが、これらも一種の「癲癇」であって、この憑依霊は幼児の霊であります。

    小児麻痺――半身不随で死んだ死霊の憑依で、これは先天的でありますが、薬毒による後天的のものもあります。

    胃 痛――龍神の再生者に多いのであります。(前生龍神界にあって諸生物を呑み込んだその霊の憑依によるもの。)なお肉食過度の毒素による擬似癌が非常に多いのであります。

    カリエス――真症と擬似とがあります。これは大体脊髄カリエス、肋骨カリエス、腰骨カリエス等であります。
    ○脊髄カリエスは霊的で、祖先が霊界で浄化を受け、その残渣(ざんさ)が子孫に流れて物質化して膿となるのであります。排膿の場合薬毒の多い人程痛みが強く、薬毒の無い者は無痛であります。
    ○肋骨カリエスは霊的ではありません。薬毒が骨膜の裏に溜着し、その浄化であります。

    眼 病――眼病にも霊的原因が相当あります。失明の原因は蛇の霊の憑依によるものもあり、色盲は、動物が人間に寄生した場合未だ動物の性能が残っているためであります。
    ○夜盲症は鳥の霊の憑依であります。

   その他霊的病症は、つんぼ、便秘症、ジフテリヤ等にもあります。

   以上をもちまして、病気につきましてのあらましをお話申し上げましたが、僅か二日間では到底精しく説明を申し上げる事が出来ませんので、実地に「御浄霊」をなされて、疑問の個所がお生じになった場合は支部とよく連絡をとるようにして下さい。

      平均浄化作用に就いて

   ある一局部の固まりを溶かすと、間もなく他の所に浄化が起る事があります。これを平均浄化と言うのであります。病人はよく痛みが移動すると申しますが、それは右の理によるので、決して“痛み”は移動するものではありません。

      若返る法

   腎臓はホルモン製出と、汚物を尿によって排泄する重要な機関であります故、腎臓の萎縮は全身的浄化が微弱となり、かつホルモンの欠乏をもたらすのであります。その結果として早く老衰致します。腎臓が完全に働きますと、男子は元気旺盛となるのは勿論ですが、女子にあっても浄血の持主となりますから、著しく美を増し人に好感を与え、ホルモンの増加は著しく魅力を発揮します。故に夫婦は円満となり家庭内の風波は起り得なくなり、又老年者といえどもまず二十歳位は若返るのであります。何という有難い事で御座いましょう。

      真の健康法

   “真の健康法”とは、霊の曇りを除く事であります。又霊を曇らせないようにする事であります。それで“曇”を除る方法は、
    一、まず教修を受け、救世教の信者となる事。
    二、明主様の御目的である地上天国建設の御手伝をする事。
    三、他人に対し愛をもって臨み、人から怨みを受けないようにする事。
  要するに真の健康法とは、正しい想念をもって俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じない善行の人となる事なので御座います。このような人ならば、心魂は常に明朗爽快で曇りがないのであります。病気はある程度自分で作り、自分で苦しむものであります。祖先の罪穢による病気でも、自分の行によって消えるものであります。

      御浄霊に就いての注意

   人間を霊と体とに区別しますと、背面部は霊に相応し、前面部が体に相応するものであります。従って霊主体従の法則により、あらゆる病気は背面部が重要であり、背面部からの御浄霊を良く行わなければ真の効果はないのであります。
   浄霊する人は第一に上座に坐る事。第二に手に力を入れない事。ただ「誠」をもって御浄霊をすれば宜しい。第三に病人より苦痛の個所をよく聞く事。
   病気症状というものは、万人が万人顔が違うように一定ではなく、皆多少の差異があるものであります。そうして病人の方の感謝の念の強弱が、非常に治りに影響するものであります。

      人間の健康を判別する法

   最も確実な方法は肩の部をさわってみる事であります。肩が柔かで、指がちょっと位没するような人は健康であります。肩が硬く柔かでない人は不健康とみて差支えないのであります。



教修要綱 目次 第一講

昭和29(1954)年10月10日改訂版
     

        目   次
    〔第 一 講〕
     宇 宙 の 構 成    ・・・・・・・・・・・・・・
     夜 昼 の 転 換    ・・・・・・・・・・・・・・
     大 自 然 の 力    ・・・・・・・・・・・・・・
     大自然の法則(霊主体従) ・・・・・・・・・・・・・・
     死とは何ぞや       ・・・・・・・・・・・・・・
     生とは何ぞや       ・・・・・・・・・・・・・・

    〔第 二 講〕
     御浄霊に就いて      ・・・・・・・・・・・・・・
     病気とは何ぞや(浄化作用)・・・・・・・・・・・・・・
     薬毒に就いて       ・・・・・・・・・・・・・・
     黴菌に就いて       ・・・・・・・・・・・・・・
     栄養に就いて       ・・・・・・・・・・・・・・
     病気と大自然       ・・・・・・・・・・・・・・
     内臓の三大機能      ・・・・・・・・・・・・・・
     病 気 症 状      ・・・・・・・・・・・・・・
      発熱 痛み 掻痒苦 不快感 嘔吐 下痢 浮腫 盗汗 めまい 不眠症 憂鬱症 麻痺 咳嗽 冷え 便秘 血痰 喀血
     病 気 と 霊      ・・・・・・・・・・・・・・
       肺結核 精神病 癲癇 夢遊病 小児麻痺 胃癌 カリエス 眼病
     平均浄化に就いて     ・・・・・・・・・・・・・・
     若 返 る 法      ・・・・・・・・・・・・・・
     真 の 健 康 法    ・・・・・・・・・・・・・・
     御浄霊に就いての注意   ・・・・・・・・・・・・・・
     人間の健康を判別する法  ・・・・・・・・・・・・・・

    〔第 三 講〕
     人 生 の 目 的    ・・・・・・・・・・・・・・
     御 神 霊        ・・・・・・・・・・・・・・
     生 と 死        ・・・・・・・・・・・・・・
     霊 界 の 構 成    ・・・・・・・・・・・・・・
     幽  霊         ・・・・・・・・・・・・・・
     霊界人の面貌       ・・・・・・・・・・・・・・
     顕 幽 不 離      ・・・・・・・・・・・・・・
     天 狗 界        ・・・・・・・・・・・・・・
     龍 神 界        ・・・・・・・・・・・・・・
     邪 神 界(兇党界)   ・・・・・・・・・・・・・・
     善 と 悪        ・・・・・・・・・・・・・・
     正神と邪神との信仰の結果 ・・・・・・・・・・・・・・
     守 護 神        ・・・・・・・・・・・・・・
     祖 霊 の 戒 告    ・・・・・・・・・・・・・・
     死んだ人の悪口を言わぬ事 ・・・・・・・・・・・・・・
     霊 層 界        ・・・・・・・・・・・・・・
     自然農法(無肥料栽培法) ・・・・・・・・・・・・・・
     本教の組織と運営     ・・・・・・・・・・・・・・
     結  び         ・・・・・・・・・・・・・・

     (附 録)浄霊の実際に就いて



      〔第 一 講〕

 これから教修を始めさせて戴きよす。
 世界救世教は物質文化の進歩と相俟って宗教的文化の建設を促進し、造物主の御目的であり、又吾々人類の理想世界である地上天国建設を目的とする団体であります。
 それでは地上天国建設とは、どういう事かと申しますと、要するに世界人類から病気と貧乏と争を絶無にしで、全人類が何の不安もなく安心しきって暮す事の出来る世界、即ち不審者の一人も居ない幸福者ばかりの世界を造らんとする事であります。
   しかし人は嗤(わら)うでありましょう。そんなうまい話があるはずはない。過去数千年の歴史を見、又今日のこの世界の現状を見る時、あまりにも現実とかけ離れた話ではないか……有史以来の文化の変遷を見る時、そんな大転換が起り得るはずがない。吾々は常識を持っている。もし実現するならば、それは一大魔術である。催眠術にかかってほんの瞬間だけの夢でも見なければそんな馬鹿な話があろうはずがない。だから世界救世教は信じられない、と言うのでありましょうが、これもごもっともな事であります。誰でも最初入信当時はほとんど同様な考え方を致しでおります。この事は万人が万人そう思うのは当然の事であります。全く一大魔術であります。魔術でなくて何でありましょう。
   しかしこの一大魔術を行うには、これを行うものがなくてはなりません。到底人の力ではこの理想世界は出来るものではありません。この大魔術者の本体を突込んで調べて見なくてはなりません。この一大魔術者こそ観音様、即ち光明如来様、即ち五六七(みろく)大御神であり、救世主であります。この救世主の神様が振われ給う御力によってこそ、初めてこの理想世界が実現するのであります。この御神力こそ生きとし生ける者を救う力でありよす。即ち人類救済の一大力が今日この現実世界に出現しているのであります。
   これを要するに、造物主、即ち主神の目的であり、人類の理想である処の地上天国化は、この救いの力である処の御神力の出現によって初めて出来る事を、先ず皆様の顕の中によくよく入れて戴きたいのであります。
   飜ってみまするに、この現在の実状のままで今直ぐ一大転換して地上天国がもし出来るとしたら、それこそ人類はまことに好都合で何の心配もありませんが、世の中には棚から牡丹餅式の旨い事はあるものではありません。地上天国という新しい理想世界が建設される前には、どうしても今日までの旧世界の一大清算がなくてはならないのであります。ちょうど新しい家を建てようとするには旧い家を一旦破壊して、昔の土地は清浄化されなくてはなりません。勿論旧い家の中にも役立つものも相当あるでありましょうから、それはそれで残されるのであります。その取捨選択は神様がおやりになる事は当然の事であります。故に人間においても、来たるべき新世界に役立つ者は残されるし、役立たぬ者は滅亡させられるのであります。即ち吾々人間は、この来たるべき新世界に残される者、即ちこの世界に役立つ者として生き残らなければなりません。即ち旧世界(地獄世界)から新世界(天国世界)への切替時が今日来たのであります。キリストの言った「世の終り」とか、又「最後の審判」の時が今や切迫して来た事を思わせるのであります。又釈迦の唱えた仏滅とか法滅尽とか言った事は、今日漸く来た感があります。聖書にあるハルマグドンの戦とは今日の事と思考されるのであります。
   吾人はすべからく過去の過ち、即ち意識的、無意識的のもの、又は祖先伝来の過ちを改め、百八十度の転換を行い、そうして神様の御眼鏡に叶った、即ち神を畏れる、立派な、正しい人間にならなくてはなりません。それにはどうしても正しい神様を信仰するより外に方法はないのであります。その神様の御眼鏡に合格する人としての資格とは、病貧争絶無の世界に生存が出来得る人間でなくてはなりません。即ち病気のない真の健康人とならなければなりません。又貧乏から脱れた裕福な人間、和を好み争い事を嫌う人間にならなければなりよせん。この三つの資格を有する人間であれば神様は決して滅し給う必要がないばかりか、来たるべき新世界の有能人(役立つ人)として待遇される訳であります。しからば来たるべき新世界に生存してお役に立つ有能人としてのこの三大資格を得る方法があるかと申しますと、救世教こそその三大資格者を作るべく生まれたものであります。
   これから順を追って、神様の恩恵をお取次致したいと存じます。
   今日広い世の中を見まするに、本当に何らの不安もなく安心して日々を送っているものは殆んどないと言っても過言ではありますまい。その不安の中で一番先に考えられるのは、何と言っても人間の病気に対する苦悩心配でありましょう。だからこの三日間の教修も、この病気に対する説明が主となるのであります。僅か三日間の教修でありますから、到底本教の全貌は御判りにならないのも当然の事と存じます。それで教修が終られたならば、神様の御力を御取次出来る御守様を御授け致しますから、実地に病気を治して御覧になりながら、教会にお参りになったり、熱海、箱根の御本部にお参りになり、更に種々の御神書を拝読なる事によって、遂次本教の全貌の御会得が出来るようになります。
   それでは本教修会の力を入れている病気の解決から御話し申し上げたいと存じます。
   ここでちょっと学問について御話し申し上げたいのであります。学問にも生きた学問と死んだ学問とがあります。分り易く言えば学問のための学問は死んだ学問であり、学問を実社会に活用するのが生きた学問であります。但し真理の探究のための、学問は又別であり真重なものである事は言うまでもありません。まず学問とは今日学枚で、教科書を経(たて)とし実地を緯(よこ)として先生から教えられるのであります。が、その教えるところのものは先哲、学者が研究した結果構成されたものがその礎となって今日の学問の形態となったものであります。勿論新発見や新学説が現われては消え、現われては打破されつつその中の価値のある部分のみが残って来た事は皆様の御承知の通りであります。
   その当時は真理として受入れられていたものも、その後に到ってそれ以上卓越した新学説、新発見が現われた事によって跡形もなく消えたものもあり、今もって人類に役立ち、社会の福祉を増進しつつあるものもあります。それら一切の価値は「時」が決定してくれるものであります。この意味において現在絶対の真理とし、永久不変なものと確信しているものでも、それを打破る新学理が何時どんな人によって主唱されるかも分りません。ところがこういう事は昔からその例は少くないのでありますが、ともすれば新発見が現われた場合、その新発見なるものはそれまでの既成学理の型に当はまらないどころか、およそその反対の説が生まれる事があります。だからその価値がある訳でもあります。その価値も古い型を破る事の大きい程大きいのであります。このように旧学説が段々影が薄くなって行く事は、新しい学説が生まれたからであり、今まで真理と思ったのが葬り去られるという事は、それ以上の真理が生まれたからであります。かくして止りない文化の進展があるのであります。動力でも、電気やガソリンが最高のものであるとして、それ以上のものは当分ないと思っていたが、原子力の発見によりその応用研究を始めている現在であります。それと同様に病気を治す方法は西洋医学の学理応用以外には他には絶対にないと言いきる事が出来ましょうか。原子力応用の動力が生まれるように、医学に対しても新学説が今生まれたとしても不思議はないはずであります。それ故今医学に対する新学説が生まれたとしても、それを検討する事が当然であるにもかかわらず、世間は何ら研究をしないどころか、頭から迷信邪教だ、異端邪説だ、として目を光らせて来ているのであります。
   明主様は、二十有余年以前から医学に対する新学説を唱えられ、それを御著書として発刊なさると、たちまち当局の忌諱(きい)に触れ、今まで三回までも発禁となったのであります。吾々と致しましては誠に残念至極に存じましたが、これも“時代(ときよ)と時節、長いものには巻かれよ”として時の来るのを待つ外はありませんでした。当時明主様もおっしゃいました。『今私が思うままを書いたとしたら、その驚愕と弾圧はどれ程であろうか。ほとんど予想はつかないであろう。しかし一方巷(ちまた)を見る時、誤れる医学によって重難病に呻吟しつつある憐れな者が実に多数に上っている。この哀れな人々を私は今思い切って救ってやる事が出来ない。と言ってジッとしてただ傍観視する訳にもゆかない。誠にじれったい気持になる』と。
   しかるに今日の吾々は何という幸福者でありましょう。この明主様の山よりも高く海よりも深い大慈大悲の御心と御教えを高く掲げて、その真理を広く世間に御取次して述べ伝える事が出来るようになりました。
   ここでちょっと真理という事にといて述べさせて戴きます。
   真理というものは簡単なもので、決しで複雑なものではありません。複雑なもの程真理から遠ざかったものになるのであります。学問がなくては分らないと言うのもおかしなもので、真理は誰にでも分るものでなくではなりません。それ故本教の教え即ち真理は無学の人でもお分りになるのであります。
   いよいよこれから本論に入らせて戴きます。

      宇宙の構成

     まず我々は宇宙の構成から御話しなくてはなりません。この宇宙は三つの世界によって構成されております。即ち――
    ◎目に見える物質世界
    ◎目に見えぬ空気の世界
     この二つの世界は物質でありますから、一つにして現界と申します。
    ◎目に見えぬ未知の世界――即ち霊界があります。
     この三つの世界によって宇宙というものは構成せられているのであります。即ち人智の低い時代には物質世界だけは分っていましたが、人智が進むに従って目に見えぬ空気の世界、即ち空間が発見せられたのであります。しかし現代人は霊界なる世界が実在している事を知らないのであります。しかしながら霊とか霊気とか神霊とか幽霊とかいって、霊という文字は相当使われて来ていますが、その多くは宗教又は心霊科学の面に限られていました。それがため「霊」という言葉を使用しますと迷信のように見られ、却って霊を否定する事をもって識者の資格とさえ見られる現在であります。ところがこの度この未知の世界たる霊界の存在する事を、明主様によってはっきりと教えて戴いたのであります。
   そこで物質世界と空気の世界は有知世界(既に吾々が認識している世界)で、これを現界と言うのであります。そうしてこの現界の裏とでも申しましょうか、この目に見えぬ世界を霊界と申します。つまり宇宙の構成は霊界と現界とによって構成されているのであります。
   これから色々と御話を致しますが、この霊界なるものの存在を認識しない限り、到底私のお話は御理解が出来ないのであります。又、同時に霊という言葉も度々使われるのでありますから、これまた御認識出来なければ御納得が出来難いのであります。
   ただ今申し上げました通り、この宇宙は霊界と現界と密接不離の関係にあって、単独の霊界もなければ単独の現界もないのであります。又この宇宙における森羅萬象あらゆるものの一切は、三つの元素から成立っていて、この三つの元素を離れての存在物は一つもないのであります。あらゆるものの生成化育は、この「三つの元素の力」に依らないものはないのであります。しからば根本であるところのその三つの元素とは何であるか、と申しますと、それは火素、水素、土素であります。言い変えれば太陽と月と大地、即ち地球の各霊気であります。即ち太陽は火素が元であり、月は水素が元であり、大地は土素が元であります。即ち火素、水素、土素が三大元素であります。そうしてこの三つの元素の力が経と緯とに密合しているのであります。
   経(たて)とは天から地まで即ち太陽から月、地球というように三段階になっております。緯(よこ)とは吾々が住んでいるこの地上そのものの実体であります。それはどういう意味かと申しますと、この地球上における実世界は、空間と物質とによって存在しております。物質は人間の五感によってその存在は知る事が出来ますが、空間は長い間「無」とされていました。しかしその後文化の進歩によって、空気という半物質の有る事を知ったのであります。しかるに又、空気だけと思っていた空間に、今一つ他の元素がある事を明主様によって発見せられたのであります。これこそ世界的大発見でありまして、明主様はこの目に見えざる存在に対し「霊気」と名付けられたのであります。
   ここで断って置きたい事は、他の宗教で言っている霊界とか、生霊、死霊、憑霊等の説とか、霊科学者達が唱えている霊界とか、又ワード博士やオリヴァー・ロッジ卿等の言っている霊界や霊などと本教の説とは根本的に異なっている事を御承知置き願いたいので御座います。今我々が説く霊気なるものは、素晴しく進歩したもので、将来来たるべき昼の文化の根元をなすものであります。
   この事は明主様の御著書の中に相当詳しく説いてありますから、他日ぜひ読まねばならぬものであります。重ねて申し上げますが、あらゆる物はこの火素、水素、土素の三つの元素が、我々にはほとんど想像もつかない程の、極く極く小さい微粒子として融合調和し合って活動しているのであります。これが宇宙の実体であります。

      夜昼の転換

   これから御話を申し上げます事も、今申しました霊界なるものの存在を御認識になった事と考え御話を申し上げます。と申しますのも、この霊界なるものが今や“夜の世界から昼の世界へ転換しつつある事”を認識しなければ、病気を治す原理も到底お分りにならないのであります。この事は一番大切な事で、この夜昼転換の事象を知る事により、病気治しの原理も、過去数千年の文化の誤謬も、将来の世界の動向も分ることになって、心の安定が出来るのでありますから、御注意なさってお話をお聞き下さるよう切に御願い申し上げます。
   そもそも万有の原則として、現界におけるあらゆる事象は、既に霊界において発生し運動を起しているのであります。ちょうど人間が手足を動かす場合、既に意思が先に動いているのと同様の理であります。即ち現界の出来事は、すべて霊界の出来事が写って来るものでありまして、故に霊界においては、最近に至って一大転換が起りつつあるのであります。これを私共は“夜昼の転換”と称しております。
   即ち一日に昼と夜との別がありますが、実は一年にも十年にも、百年、千年、万年にも昼夜の別がありますが、しかしこれは霊界での出来事で、現界においては一日の昼夜のみが判然と知り得るに過ぎませんが、先程申し述べた理由によって、当然現界への反映が種々の形において現われて来るのであります。
   さて、今や霊界においては、何千年日か何万年目かに当然来たるべき、昼夜の切替えが来たのであります。この事はどうして分ったかというと、これは明主様が御霊感によって直接御知りになった事で、霊界の事は知る由もない私共では信ずる外はありませんが、この事を知らされて現実世界を見ると、全くこれは確かな事で、間違いではないという事が段々と御分りになるのであります。
   今まで霊界における世界は長い間夜でありました。夜の世界は現界と同様、暗くして定期的に月光を見るのみであります。勿論水素が多く、月が光を隠せば星の光のみとなり、それが曇れば真の暗黒となります。これが写る現界の出来事を見ても明らかであります。即ち今日までの世界の国々の治乱興亡の跡や、戦争と平和が交互に続く有様は、ちょうど月が盈(み)ちては欠ける事を繰返していると同様であります。しかるに天運循環して今まさに昼に転換しようとし、今はちょうど夜が明けて太陽の姿が地平線上に浮かび上ったとも申せましょう。その霊界の大転換が現界に写り転換する姿としては、人類が未だ経験した事のない、驚くべく、恐るべく、また喜ぶべき一大変化が、地球の極東日本から始まるのであります。日本においては今や夜の文化即ち既成文化の崩壊が開始されたのであります。政治、経済、芸術、教育、宗教等の各方面にわたって致命的行詰りを生じているのはそのためでもあり、またそれに続いて新しき昼の文化建設の胎動をも感する事が出来るのであります。本教の誕生とその発展はその核心を成すものであります。
   本来夜の世界とは闘争と飢餓と病苦に満ちた暗黒の時代を言います。昼の世界とは平和と裕福と健康の具備した光明の時代を言うのであります。しかしながら東天に昇り始めた太陽は、やがて大空の中心に到るのであります。それは何を意味するのでしょうか。即ち夜の文化の総崩壊であると共に、一方昼の文化が建設されて行く事であります。この事はそう長い時を要しないのであります。あるいは極めて近き将来かも知れません。
   この昼の文化、即ち宗教、政治、経済、教育、芸術等のあらゆる文化工作は、その時期が来ますれば、明主様によって発表されると存じます。即ち本教は単なる宗教ではなく、新しき科学でもあり、宗教と科学との完全なる一致という人類の理想を達成させる目的で着々実現させつつある超宗教でありますが、現代人の無理解に依る圧迫は覚悟の前であります。しかし今後真昼の世界が段々と近づくに従って、この破壊と建設の摩擦が益々旺盛になると言うよりも強烈になって参りますので、あらゆる事に悩みの出来る人々が激増して、実に恐ろしい時代が参る事も予想が出来るのであります。肉体的に言えば体内の毒素は、余すところなく段々と増えて来る火素に依り溶解し始め、病人が激増しまことにいやな結果が来ないと断言は出来ないのであります。戦争や空襲の比ではないでしょう。キリストの言った「火の洗霊」とは火素による洗霊と存じます。現在はまだ病気が局部的でありますが、やがては一度に全身的の大病となる事を想像する時、ただ神様に御縋りするより外に方法はないと存じます。この大変革の時を乗越すには、病気に対する原埋を知っていないと、どういう結果になるかは、皆様の御推察御判断にまつより致し方がないのであります。即ちこの転換期を乗越すには、「浄霊」の方法を自ら修得しておく事が一番肝要な事と存じます。この教修会も、今日生きて行くためと、将来来たるべき大峠を乗越す事の出来る方法と、はたまた皆様の近親者やこの地方の方々を一人でも多く御助けの出来るようにとの考えで、この教修会を開かせて戴いたのであります。「浄霊」という事については後で詳しく説明させて戴きます。

      大自然の力

    霊にも「霊の霊」と「霊の体」とがあります。人間の五感に依って知り得る範囲は「霊の体」の面に属するのであります。たとえば――電波、光波、音波等で、「霊の霊」は五感に触れる事の出来ないもの、即ち見えざる「光」であり「力」であります。この目に見えない又捉える事の出来ない、無にして無に非ざる存在――これを「幽幻力」と言うのであります。又これを「大自然の力」とも申します。この大自然の力、即ち幽幻力こそ――あらゆる力の本源であって、その力の中心としての主動力が宇宙意志であり主神の御力であります。この主神の御力を受けついで御揮いになるのが、明主様なのであります。この幽幻力こそ、絶対であり、無限であり、萬有の創造力でもあります。この自然力であり、幽幻力である神様の御力を知る事によってのみ初めて理想的なる人類文化の建設も可能であり、地上天国建設の可能も信ずる事が出来るのであります。即ち現在の科学を超越した超科学であり、現在の宗教を超越した超宗教とも言えるのであります。
    今日までの人間は、力と言えば物質力を最大と信じで来たのでありますが、これは大変な誤りで、物質力は如何なるものといえども限度があるという事に気付かなければなりません。有限力であって、無限力ではありよせん。「幽幻力」こそ無限力であります。
    私共が今行っています病気治し、即ち「御浄霊」も、この幽幻力の一部の現われに過ぎないのであります。まことに奇蹟の如き驚くべき治病力が発揮の出来るのも――この幽幻力であればこそ可能であります。単に人間が空間に掌をかざしただけで病気が医されるものではありません。
    最近では新聞、ラジオ、雑誌等で本教の事を非常に騒ぎたてているのも、みなこの幽幻力が目に見えぬため、その真相が分らないからであります。いまにこんな事とは知らずに、反対をしたり悪口を言ったりしなかったら良かったのにと必す後悔するに決っております。私共はこの教修会によって「大自然の力」というものを教えて戴き、それが尊い「神様の御力」であったという事を知って、何といってよいか、その喜びは到底筆や言葉では表わすことは出来なくなるのであります。
    皆様、どうかこの大自然の力即ち幽幻力が、神様の御力である事をよくよく玩味してお覚りになるようひとえにお祈り申し上げます。
    今まで世界中の事は学問でどんな事でも解けると思っていた偉い人でも、この幽幻力の本体はてんで分りませんでした。これが分ろうとするには又実に簡単であります。それは人間の最大の悩みである病気を医す事の出来る力を深く考えてみればすぐ分る事であります。
    人間は造物主即ち大自然の力によって造られたものであります。しからば――その人間の破損ともいうべき病気を医す力もまた大自然の力でなければならぬ ――と考えれば、それでお分りになるはずであります。物を造り出す力があれば、その物の故障を直す力のある事は真理であります。

      大自然の法則(霊主体従)

   先にも申し上げました通り、現界におけるあらゆる事件は既に霊界の方で先に起っていて、それが現界に写って来るものであります。しかるに現界の出来事のみを対象として解決しようとしたのが、今までの学問の理念でありました。文化が進歩したと言いながら人類の幸福がそれに伴なわないのもそのためでありました。故に現界の事を解決せんとするには、まず霊界のそれを解決しなければなりません。これを霊主体従の法則と申します。この意味において、病気の治療でも、霊界よりの解決、即ち霊をもって霊の治療を為(な)す事が真の治療法でなければならないのであります。従って人体といえども霊体は霊界に属し、肉体は現界に属しているのは勿論であります。ですから人間の病気も霊の曇りを解消さえすれば、その曇りが肉体の毒素の溜結となっているのでありますから、それが溶けて病気が治る理屈になります。

      死とは何ぞや

    そこで人間の霊体とは如何なるものでありましょうか。これを解くに当って知らなければならないのは、生死の問題であります。それで死とはどういう事かと申しますと、霊が肉体というサックから離脱して霊界に還るのであります。そうして肉体は土に還元するのであります。これが死であります。

      生とは何ぞや

    生まれるという事は、霊界に往った霊が、ある時を経て再び現界に生まれて来ることでありますから、霊は無限の生命体であり、肉体は有限的のものであります。だから、人間を取扱う上において霊が根本の対象である事を知らなければなりません。
    以上述べました事は、これから御話申し上げる病気を治す方法に対し、予備知識を御話し申し上げた積りでありますから、どうしてもこれだけの知識は充分御認識あって欲しいのであります。これだけの知識がない限り、これから御話申し上げますところの病気治しの原理は御理解が出来にくいのであります。

   

御講話 (昭和十年七月一日)

 御講話  (昭和十年七月一日) 

  只今発表した、大黒様の御賽銭ですが、一番高い投票は二百五十幾円といふので、之は景気のいい方で、一番下の方で三十幾円といふのがあり、之は又馬鹿に遠くなっちゃった。非常に面白いと思ふのは、五十七円五十五銭といふのに対して、五六七(ミロク)といふ方が非常に多く、之は五六人あった。それで五十六円七十一銭の方が五等で堂々と入った訳で、五十七円から五十六円七十銭を引くと三十三銭残る。五十七円五十五銭から五十七円を引くと五十五銭となる。五十七円を基点としてみると、外が五十五銭、内が三十三銭になる訳であります。それで、五五、三三になる訳で、五は表の数、三は内の数で、五が日、三が月ですから、之が伊都能売になってゐる。五五、三三を入れかへますと八十八になる。伊都能売は五三で八になる。ですから八十八といふ事は、伊都能売の神を開くといふ事になる。お賽銭の数にも、こういふ神秘があると思ふのであります。
  之からいろいろな仕事をして参りますけれども、重なる運動の仕事としては、病気のない世界を造ることで、医学の革命、又宗教改革であります。宗教改革は昔マルチン・ルーテルが宗教改革したんですが、そんなものじゃないんですが、改革といふ事が人口に膾炙(カイシャ)されてるから、それを使ひます。
  要するに、迷信が自滅するといふ事で、之から東方之光と光明世界へ、迷信の実例を出したいと思ひますから、迷信の実例の材料があれば、投書して戴きたい。そして世の中の人の目を醒ますといふ事が、必要な事です。
  最近あった迷信の実例として、非常に面白い事があった。之はお稲荷さんといふ意味ですが、それを祭っておられたんですが、今度、観音様を祭られたので、その御神体を処分したいといって持って来られたので査べてみると、何か狐の毛が三本あるといふのです。行者が或日、自分の部屋の畳の上に狐の毛が三本あったといふので、之は慥かにお稲荷様が来て毛を残したに違ひないといふので、一本十円で分けたので、その方は三本貰ひ三十円出したそうです。中を開けてみると立派な金襴で包んであり、中に小さな鏡がついてゐる。開けてみると、又中に金襴の袋になってゐる。段々開けてみると、長方形の袋がある。段々破ってみると、黒茶色の毛が一本入ってゐる。三本あったといふから、二本は詐欺したものといふ事が分る。よくみると猫の毛らしい。狐の毛としては如何にも黒い。どこか畳の上に猫が来て落したものに違ひない。之を神体として相当な人が拝んだに違ひない。是等は迷信の実例として最も適切なものと思ふのであります。斯ういふ事は笑へない事実で、未だ未だ沢山あるに違ひないのであります。
  昔から堂々たる分子に迷信が沢山ある。今迄学者方面が迷信を暴いた。然し学者が暴いた事は余りにも科学的で、自分の立場からすべてを迷信といひ、反って反感を持たれるやうであります。それで反って学者の方が可哀想な位にみられた。
  今度、観音会が発表する事は、信仰団体なれば余程変ってゐる。それも観音会は迷信がないから出来る。も一つ話しますが、或熱心な信者ですが、その宗教ではお土といって泥を病気を治すのに使ふ。相当の効果はあって、おデキや怪我等の外科の方に用ふれば、確かに効果はあった。所がその人は、それを内科用に使った。又使はした。泥を煎じて飲んだのです。その方は大変御利益を戴き、すべてお土を使へばよいと終には呑んだ。一時大病に罹った事があって、此時とばかり今度は蜜柑箱に一杯のんだ。その為土の中毒者になった。私が最初みたら身体は土色になってゐた。之が本当の土人だらふと思ふ。で、長い間かかってやっと良くなったんであります。それは病毒でなくて土の毒なんで、土は人間が呑んだり食ったりすべきものでなく、人間が食へるやうに出来たものを食ふべきで、土を食ふのはおけらかもぐらもち位なもので、之等も著しい迷信の結果であります。
  病気を治すのに何百円金を出せば治る等といふ。実際に治ればいいが、結局様々な事になる。
  之も話したかもしれませんが、恐るべき迷信がも一つある。こういふ迷信がある。五六日前或人が、近頃盛んに書物を宣伝してゐる「生長の家」といふのがありますが、決してわるくいふ為でなく此「生長の家」の雑誌を読んだ方の質問ですが、その本の中に念の法則に適へば悪事をしても栄えるといふ事がある。之はどういふ訳かといふ質問があった。之は実に怪しからん事で、念の法則に適へばどんな悪事をしても栄えるとは怪しからぬ。 昔親鸞の有名な言葉に、「善人尚往生を遂ぐ況や悪人に於てをや」之を怪しからんと思ふに拘はらず、親鸞の教の人は有難がってゐる。之を字義通りに解釈すると、善人も救はれる、まして悪人は尚救はれる、彼等はこれだから有難いといふ。いづれ東方の光にも出すつもりですが、之を押し拡げてゆけば、善をするより悪の方が栄えるといふ事になる。此位反道徳的な事はない。
  善人でなくては救はれぬといへば、悪人は飛込んで来ぬ。悪人も救はれるといへ ば、悪人も入る。そこが彌陀の大慈大悲な所だと有難がる。之も一理はあるが、その効果よりも悪人の方が救はれるといふ影響がどれ位大きいか判らぬ。どうしても善でなくてはならない。悪では駄目で、之は天地の法則を破る怪しからぬ事で、之を有難がるのはやはり迷信であります。
  又も一つ、親鸞上人は自分には弟子はないといふ。みな御同行であるといふ。弟子もなし同じ行者であるといふ。之を又有難がってゐる。之は共産主義思想と認められる。階級撤廃、階級無差別の思想です。何となれば、師があれば弟子があり、そこに階級がある。弟子も師匠も同じ所位にあるといふ。弟子も師も同じでやはり人間であると。之がマルクスの主義の根本で、そういふ事を有難がるのはやはり迷信であります。
  此迷信の起るべき根本原因を査べてみると斯ういふ点であります。
  昔からある世に出た釈迦、キリスト、親鸞とか、日蓮、空海とか有名な偉い坊さん、そういふ聖者の行ったり言ったのは何でもかんでも絶対のものと有難いものと決める。それが迷信の因となる。でありますから、成程今迄はそれでよかったが、本当の大光明世界建設するには許せない。お釈迦様の言ってた事も間違ってる事は間違ってる。キリストにしてもそうで間違ってゐる所がある。
  それが観音様の思召しであります。何となれば、お釈迦様やキリストや阿彌陀が、観音様よりは下の神様ですからで、今度観音様が出て、今迄釈迦やキリストのいった事はいかんと叱言を言はれ、間違ひを正される。実に滑稽な事が沢山ある。而もバイブルはあの当時反逆罪で磔刑になった、弟子が十一人残ったんであります。それでうっかりすれば散々に身を隠しほとぼりの醒めるのを待った。そのほとぼりがさめるのに十年以上かかった。そしてボツボツイヱスから聞いた事を書いた。確かにそういふ事を聞いたといふ事をかいた。ですから敢てイヱスのみを責めるのも酷かと思ひます。
  釈迦の経文も諸々の弟子が書いた。そこに誤りがないとも限らぬ。あの時代の印度の思想と、今日の社会とは非常に違ふだらふと思ふ。仏法の根本はあの当時バラモン教が盛んで、非常に難行苦行しなければならなかった。十年二十年山へ籠ったり、羅漢姿の変梃子な恰好したりなどして、なかなかそれで道をさとりにくい。あれ程苦しい目に遇ふのは可哀想だ、もっと楽にさせねばならぬ、もっとた易く修行させなければならぬと、その為にお経文を説かれた。
  所が今日の頭で考へると楽にする為に説いた経文があまりにも多すぎる。あの時分のやうな生活難もなく、国際的紛糾な問題もない頗る呑気に暮された。天然の物を食べて生きておれる、山や林間へ籠って、幾日もボーッと考へておった丈で食って行けた。所が今日の人間は、その経文を読む丈も大変で、みんな読まなければ今日悟りを得られないといふと、あれを皆読んだら一家は干ぼしになる。商売はなくなる。そういふ訳でありますから、仏教のお経文なんてものは廃止した方がよい。併も此言葉たるや、梵語を漢訳して支那で訳し、日本へ伝わったものですから、よほど此点に間違がある。分らぬ-分らぬものを読む必要はない。ですから、観音会の祝詞などは判るやうに書いてある。分らんもので人類を救ふのは無理です。分らぬと迷ひが起る。今日、経文で救ふ等といふ事は余りにも時代錯誤で、食ふに困らず、晒し木綿を着けてブラブラしてゐた時代のもので今日を救ふとは、それは無理で、バイブルの中に金持の天国に入るは駱駝の針の穴を潜るよりも難しいとある--すると金持はどんな事をしても救はれぬ、といふ風にとく。若しキリスト教信者が救はれるとしたら貧乏にならなければならぬ。
  所がアメリカやヨーロッパの信者には金持は沢山ある。而も金持の懐(ポケット)からすべて維持されてる。それは可笑しい。そうして早く貧乏になるのかしれぬが、金持は絶対に救はれぬといふのは可笑しい。之も金持の金を打倒したりなどするといふ、やはり迷信に違いない。
  宗教ばかりが迷信してゐるんじゃない。医学を信じて死ぬ人も沢山にある。之も医学の迷信でそういふ風にみて行くと、いろんな事が間違ひだらけな事が沢山ある。そういふ事を沢山知らせ、眼をさまし、たしかな真理を行ふ。或は本当の事、本当の信仰、本当の生活といふ事の標準を示さなければならぬと思ふのであります。
  いろんな迷信的な禁厭(マジナイ)とか方角等がありますが、之も迷信で、迷信にみえてゐて迷信でない事もあります。之もよく知らしたいと思ふ。お知合の人などで、そういふ材料があったらば、意味丈書いて投票して下さる様にして頂きたい。
  も一つは天照大神様が観音様に化身される事で、此点はっきりしないと万一不敬に渉る事があってはならぬ。
  天照大神、之は主神で全大宇宙は天の御中主の神の御神体で、之は漠然として掴み所がない。それと高御産霊神、神御産霊神で、之を造化の三神といふ事にしてあります。もっと違ふ説もありますが、之が一番根拠ある説で、高御産霊神は霊系の祖、凡ゆる森羅万象の霊を司られる。物質界即ち体の方は全部神御産霊の神で、此三性の個性を持っておられないから拝む事は出来ない。すべての中心として主神は天照皇大神様を表現神とする。要するに統一する中心の神様として御顕現遊ばされたのであります。でありますから、天照大神は人体をもって一度表れ給ふた方、之が主の神様で、一切の中心主でゐらせられる。
  天照皇大神様は世界統治の権を天皇にお委ねされた訳で、皇祖の御遺訓として「豊葦原瑞穂国は我子孫の王たるべき地なり、汝皇孫ゆひて治めよ」といふ事は統治の権を授け給ふた事なんであります。
  その他に救ひの権を与へられた。それが観音様で審判の権は国常立尊に与へられた。それで国常立尊は艮へ押し込められ、幽界に於て閻魔大王となられ審判をせられた。統治の権と救ひの権と審判の権を定められた。でありますから、お観音様は救ひの権をもたれ、どこまでも大慈大悲、善悪を問はず救はれる。此点は悪人も善人も同じ様に救はれる。丁度日月の光が遍ねく照るのと同じ事なんであります。その様に救はれる、それを大慈大悲といふのです。国常立尊は善悪を絶対に立分け審判される。丁度閻魔大王と同じ事なんでこの点を明らかにしておけばよろしいと思ひまして、一寸お話致しました。

御講話 (昭和十年六月二十一日)

御講話  (昭和十年六月二十一日)  

  観音運動の根本としては、いつもお話する通り、病人のない世界を造る事で、すべてはそれが根本になるんであります。で、そういふ病人のない世界といふのは、開闢以来誰もやった事がない。又やらうとした人も無かった。又、之は大変な大きな力でなくっては出来ない事なんであります。
  実際の事をお話すれば、お釈迦様でもキリストでも、日蓮だの親鸞、弘法大師でも、昔から有名な人がテンでやらなかった。それを今度初めてやるのであります。
  そういふ事が出来るかどうかといふ事は、普通は疑ふんでありますが、毎度講話会でお聞きになる通り、種々な御神徳話は大体病気が良く治る事が主であり、一々体験された方のお話であって、又肉体の病気まででなく、精神上、生活上等、すべての上の病ひ迄種々と御神徳があり、それによって体験された方は、病気のない世界が実現する事は、疑ふ事が出来なくなってくるのであります。それで、私が日々講義にして-講義といってもあんまり講義はしませんが、私が病人を治してるうちに、実地にみるのと、断片的に私が話すのを聞くのと、時間があると口述するので、それを聞く。一週間して、大きな財布のやうなお守りを受ける。そうすると、僅か一週間で博士よりも良く病気が治る。実に之は不思議な話であります。
  先刻、大竹さんの話で、瘤ケ原の大天狗が三十日も二十日もかかって治らなかったものでも、僅か数日で治ったといふのですが、瘤ケ原の大天狗にしても、少くとも山へ三年位は入って断食したり、水行したり、種々な難行苦行をしたものに違ひありません。それでも、医学博士よりは気が利いております。何となれば、山へ入るのは学校へ入り研究するような資本(モトデ)が要らぬから、親の脛をかじったりなどしない。此前お話した通り博士となるには少くとも万といふお金は費し、十年二十年の歳月は費して苦しんだものであります。そうした博士や、あらゆる難行苦行したものが治らぬものを、大竹さんは、つい此間ここで一週間修行した計りで、一月と経たぬのに、そういふものが治せる事が出来るのであります。
  ですから、病人のない世界を造るには、そういふ観音会の医者が数多く出来れば、それでいい訳で、後は病気に罹らない事を教へればよいのであります。それはどうすればいいかといふと、本を読ませればいいのであります。そうして、あらゆる健康法の間違った事、間違った衛生法を知らし、本当の健康衛生法を教へますから、それに気が付いて、言ふ通りに実行すればいいのであります。将来そういふ本が出来るんで、そういふ本が出来て、社会百般のものに読ませるやうにし、観音医者が数多く出来れば、それでいいから、そう難しい事ではなく、変った事ではないのであります。
  それに就て、観音様の方針を示されておりますが、そういふお医者の名前は、三段に分けられてあります。一番最初の人、下の階級は医業士といふので、次に普通の医者の学士に相当するのが、医療士と言ふ名になるんでありまして、丁度今の医学士に相当するんであります。今のは医学といふ医者の学問で、医者の学問を学んだから、医学士といふので、字がはっきりと現はしております。成程たしかに学問であり、或は学んだものですが、観音会の方は治すのですから、療の字をつけるので、医し療すのであります。次に、其上の階級を医療博使といふのであり、しの字を使の字にしてあります。士の字をつけるとお医者と間違ひ易いから、使としたんであります。実際、博士をハクシとよますのは、之も士の字は可笑しい。医者は軍人じゃないから、さむらひの士の字をつけるのはチト変であります。もっとも、今の医者は、さむらひといってもいゝかも知れません。切ったりハッたり血を出したり、或は腕の一本位切り落す位は何でもないのですから。
  又、将来は病院を沢山作るつもりで、之から博使も出来ます。医療博使は将来は病院長になられるのであります。それから今医療士を第一期として百人を作る訳なんであります。そうして第二期として千人、第三期として一万人作るので、一万人作ると日本中から凡ゆる病気はなくなり、伝染病や重病などはなくなる訳であります。
  それから次に海外進出となり、東洋各国は勿論の事、西洋の各地へも日本医学の病院が出来る。そして西洋人の病気を治すのであります。無論、西洋医学よりはずっとよく治りますから、西洋医学は段々と人類から無くなる訳であります。
  ですから皆様も、親戚の方などで医学の学校へ出てる人があれば、今の内にやめられる様にされた方が、算盤に合ふと思ふのであります。で一万人作るには、矢張り医者をそれに当てるより仕様はないと思ふのであります。今度病院を建てると、博士や学者も傭ふのです--といふのは、世間に医者を信じてゐる人を安心させる為と、も一つはお医者さんに日本医学を知らす、つまり教育する訳で、本当に之程治る医学はないといふ事を判らすんで、治る医学を宣伝させ、お医者に知らさなければならぬと思ふのであります。
  つい此間も麹町会館で伝染病予防の話がありましたが、慶応病院の草間博士の話で、今日の医学では病気は治らぬ事が判った。それで今は、病気に罹らぬ研究を医学界でしてゐるんだといふ事を、或人から聞きましたが、その様に医者自身、今日の医学では、病気は治せぬといふ事を自覚して来たのであります。
  要するに、段々と観音運動に対する機運が醸成されつつある訳であります。そういふ訳でありまして--
  所で、段々忙しくなりまして、私が直接病気を治したりする事も、もう長くはないと思ふのであります。でありますからして、講義なども先へ行くと直接する事が出来なくなると思ひます。今講義を受けるお方は、その点が非常にいいと思ひます。ですから第一期の百人といふ数は、御都合のいい方は出来る丈早くお受けになるのがいいと思ひます。今月一杯で四十人位になりますから、後二月たてば百人位は出来ると思ひます。
  それから先は、又他の仕事にかからねばならぬ事になりそうですから、今やる方は非常にいいと思ふのです。ですから、出来る丈御都合の付く丈、今のうち受けられるといゝと思ひます。矢張り将来博使になる方は、早く習った方が博使になる可能性がある訳であります。今度の病院は医学博士が下になるのですから、大学を卒業した人よりも地位が上になる訳であります。で博使になる資格としては、信仰のしっかりした人で、治療の方は無論優秀、人格とか、品行とか、そういふ方面も大病院の院長として相応しい方といふ事になる訳であります。
  世間のそういふものとは違って、光明世界になると試験とか、袖下とか、そういふものでやるのでなくて、自然と其人がそういふ資格になるので、閥とか情義とかはなく、無理がなく、一人でにそういふ地位になるのであります。ですから、その点は絶対公平なんであります。
  どうしても、そういふ考えを以て進まねばならぬ。是非とも病院が出来ます。病院が出来ればどうしても看護婦とか、そういふものが沢山出来るのであって、なかなか養成も大変ですから、是非そういふ事も--
  で、看護婦の婦長は、今日から育った観音会の婦人があてられるので、そういふ婦人は、東方の光を売る人が、その候補者のつもりであります。将来そういふ看護婦長になり、御婦人の地位を得られるのは、半年以上新聞を売られた方、それが将来そうなるといふ事になるのでありますから、そういふ希望のお方は観音隊へ入って頂きたいと思ひます。
  それから、指圧療法の大きなお守りは--御守の御玉串百円となっておりますが、男の方で東方の光を半年以上売った方は、それは要らないといふ特典がある事になりました。で、それは半年以上売らなくとも、半年売ってやめても差支えない訳であります。そして、未だ東方の光売った方の特典は、未だ未だ出るかも知れませぬが、新聞売る方は大分観音様も優遇される様で、だんだん規則のやうなものにされて発表されますから、そのお積りに含んでおいていたゞき度いのです。
  いづれ、本部の地所の候補地も凡そみつかりました。何故凡そかと言ひますと、未だ金を出して、此方のものにならないからで、約一万坪ばかりありまして、金さへ出来れば、何時でも此方のものになるやうになってゐるんであります。それも、他の宗教のやうに、皆さんから寄附を強要するなどといふ事は全然なく、是非出さして戴き度いといふ方はお断りは致しませんが--  
  すべて神様の事は、どうか出さしてくれといふて出すのが本当であって、いくらいくら出して呉れと金高までかいた奉加帳を門並を持って廻歩くなどは間違ってゐるんであります。それは今迄の行方で、既成宗教へいくと、どこどこまでものばさねばならぬと、非常に迷信的の宗教の為、苦しみ悩む人が沢山出来る。それは無くさねばならない。それは信仰の病気で--
  それで、病気治しを願ふ時、その病気は治してやるからいくら出せ、などいふのは、実に恐るべき迷信で、こういふ事は断然無くして了はなければならないのであります。そういふ方法は、あらゆる宗教にあるんであります。
  観音様の方は実にうまいもので、之は、今発表はしませぬが、それについてこういふ標準があります。今茲に或人があって、或宗教へ入ったとすると、その宗教へ入った時と入った後と比べてみればいい。その宗教に入ってから病人が無くなり、体が丈夫になったかといふ事、又財産が減ったか増えたかを見ねばなりませぬ。もしか、財産が減ったか、又つぶれたかとしたら、その宗教は本当のものではないのであります。何となれば、本当の宗教は病貧争を無くするんでありますから、貧の方へ接近させるのは本当の教ではないのであります。そういふ風に見るのが一番判り易いのであります。
先づ信仰に入って財産が増えたか減ったか、或は、商売が衰微したかどうかをみればいい。もしか少しでも財産が減ったなら、それは迷信だと断定して差支えないのであります。所が、観音会には決してそういふ事はないのであります。もしあれば斯ういふ事は言へません。
然し、特に使命のある人は、一時商売をよさなければならぬから、大きい家に住んでゐたのが、小さい家に一時入るやうな事があるのは、特に仕方がないと思って戴きたいのであります。
  観音会の方の博使や医者が出来ても、外の既成宗教の役員や布教師ですと、いくら成功しても、生活はキリキリ一杯であります。けれども観音会はそうではないので、すべてが無理がなく、相応の理で身分階級も当てはまるので、博使以上になると、家も門構えの家に住むやうになるのであります。
  既成宗教を見ますと、丁度一将功成り万骨枯るといふ状態で、之は凡ゆる宗教に当てはまると思ひます。本部は馬鹿に太くなって、御一統は素晴らしい豪奢な生活をし、信者は切り詰めた生活をしてゐるのであります。
  それは大変にいいように思はれるんです。それは大変に間違ってゐるといふ事は、すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。すべてのそういふ種々な、今迄の欠点や、今迄の間違った事を、本当の治った行方になって来るのであります。そういふ新しい形式、新しい文化が生れるんであります。
  之はずっと先の話ですけれど、観音会で将来、観音様から知らされた事なんですが、一つの都会をつくるんであります。仮りに十里四方の土地を買ふとして、そこへ三里四方位の土地をつくる。観音会員ばかりの都市を造る。病院とか警察とか裁判所など、そういふ忌はしいものの一切ない都会。又、文化設備の凡ゆるものを取入れて、又、高壮な建築物も出来、劇場も出来、鉄道など交通機関も完備した素晴しいものが出来るんであります。之が大光明世界、地上天国の模型で、之が最後に出来、それを世界の人間に見せる。そしてそれを世界各国の都市が見倣ふといふ具合になるんで--成程、今日の都会をそういふ風にするのは、改めたり壊したり大変であります。それで、観音会でそういふ物を建設するんであります。或は小さい国位は出来るかも知れません。そうすれば、或は支那辺りへ一国として出来るかも知れません。日本にも無論一つ位出来ます。
  種々な経綸は、未だ沢山ありますが、追々と少し宛にでもちょいちょいお話をする考へでありますが、先づ之からの方針と、最後の目的たる大光明世界の片鱗を時々もらす場合がありますから、講話会へは出来る丈お出でになった方がよいと思ひます。そういふ片鱗は雑誌へ載せませんから、知ってをく事は結構と思ひます。

御講話 (昭和十年五月十一日)

 御講話  (昭和十年五月十一日) 

  先程最初に堀口さんのお話の中に、今度出来たお守の事がありましたが、之はよく説明しなければお分りにならない事と思ひますから、少し説明しやうと思ひます。 今迄のお守は一円でお頒ちしてゐたんですが、今度のは十円でお頒ち致してゐます。
  観音様の御目的は、病貧争を無くするのであります。でその内でも、一番肝腎な事は病気なんであります。
  之は此前にお話した事でありますが、此病気を根本的に無くするんであります。
  観音様からお知らせ受けた所によると、日本では三千年以前、外国では国により五千年、七千年、或は九千年といふ具合ですが、それ以前には病気といふものは無かったんであります。一寸の病気位はあったでせうが、今日云ふ様な病気はなかった。従って人間は百才以上迄みな生きたものであります。よく歴史に、神武天皇以前になると、十五代或は十代位にわたる天皇があります。それは文献にもある所でありますが、大抵は百才以上まで生きておられますが、あれは本当なんであります。
  それでは何故病気といふものが発生したか。又、何故人類が早死するやうになったか、といふ事になりますと、之には大変な訳があるのであります。此お話をすると、それは大変な事で、大問題だといふ事になるのであります。それ故、此話は成丈時期を遅らせやうと思ってをりましたが、一日も早くしなければいけない事と思ふのであります。どうも何れはお話しなければならぬ事ではあるし、之が又余りに意外な話なんで、殆んど信ぜられぬ位の話であります。併し、先づ早く発表し度い気が荐りにするので、今夜お話する事に致します。
  それは何かと申しますと、人間に病気といふものが発生し、早死するやうになったといふ事は、之は薬といふものが出来た為であります。ですから、うっかり言ふと、大変な意外な話でありますから、到底信じられないのであります。
  此薬に依って、人間の寿命が縮められた。薬のない時代は皆人間が百才以上迄生きてゐたんだと、斯ういふ事を観音様から知らされたんであります。それを聞いて私も吃驚したんであります。それから、医学の進歩に依って、実は人類を滅亡せんとする位になって来たのであります。
  ですから、斯ういふ事を言へば狂人としか思はれないのですが、といふて、之を斯うしておいては大変な事になります。といふ為に観音様が愈々お助けになるといふ事になるんであります。
  で、之は段々と世の中にはっきり分って来るんであります。何故はっきり分って来るかといひますと、観音会ではっきり判らせるんでなくして、お医者自身が判って来るんであります。でありますから、たゞ之丈言っておけば、後はお医者さんに任しておけばよいので、だんだん時節が経つに従って、薬や医学では治らぬという事が判り、次に、薬や医学の為に人間の生命を大変に縮めてる事が判って来るのであります。今日、渋谷の塩野谷博士の所へ昨日迄通ってゐた人が来られましたが、その人から聞いてみると、その博士は掌で治すんだそうです。そして治療する前に、観音経を称えるんだそうであります。そして観音経をやって一生懸命御祈願してから掌で治すんだそうで、之が医学博士であります。昨日迄受けた人がいふのですから間違ひない事実です。之はお医者自身が判ったので、いくら医術や薬をやっても駄目だといふ事が判った。所謂先覚者であります。で、その人は相当前からやってる医者より、大いに繁昌してゐるんであります。
  もし薬を使はず、そういふ行方が悪かったならば、そういふやうに繁昌しない訳で、患者が益々ふえるといふのは、そういふ行方でやってる方がよく治るといふ事を、お医者自身が証拠立てたといふ訳であります。でありますから、医者や薬で人間生命を縮めると言ふ丈のもので、それを実行しなくてもいゝのです。お医者や薬屋さんが実行するやうになるんであります。
  そうなりますと、医者や薬で駄目だとすれば、今度はそれに代るものが出来なくてはならぬ。で、それに代るべきものとして、先刻言った十円のお守りが出来たのであります。之を懐へ入れておきますと、別に何にもしないでも病気は治るのであります。之は何もしない程治るんであります。何かする程、それ丈遅れるんであります。又、之は一人でなく、誰がかけてもよいのですから、一人が治れば又他の方にかけさせれば救はれるのですから、金の出来ない方も、之を借りればよい訳でありますから、こんな力強い事はありません。或程度の病気は絶対に此お守りによって治る事になっております。支部長がもし遠く離れてをられた場合、又遠国の方など特にお受しておかれたら結構と思ふのであります。
        --○--
  例えてみますと御手代であります。扇子に字のかいたもの、病気の治る意味の字のかいたもの、それを患部に当てると治る。扇子の字で病気が治るといふ、之を科学的にみれば余りにも不可思議千万な話で、信仰してる人は常識でありますが、全然知らない人が見たならば、斯んなべらぼうな事はない、そんな理屈はないといふでせうが、所が、博士が見放した病気が立派に治るんであります。
  その扇子を病気の所へ当てれば、治る意味の事が書いてあるんですから、その字が働くんであります。文字が働く等といふ事は、如何にも大きな力です。それが観音力であります。観音力はいろいろな働きがありますが、文字が働くといふ事も素晴らしいものなんであります。
  そういふ訳でありますから、今さっき言ひました十円のお守りを懐へ入れておけば、凡ゆる病気が治る意味が書いてあり、その意味通り書いてある扇子で始終治されてゐる故病気は治るんでありますから、どうしても治るんであります。そうしなければ世界中が救はれぬのであります。一軒に一人病気が出来此お守りを受けて治れば、他の病人に持たせばよいのであります。そんな馬鹿な事があるものかと言っても何といっても治るんでありす。そういふ人の言葉よりも観音様の字の方が力がある。
  併らば、そういふ事で病気が治るのなら、病気を治す手段の一つとして何故もっと早く出さないかと思はれる方もありませうが、やはりそれも時期で、時期が来なくては出せないのであります。丁度、日の上るやうなもので、段々日の光が強くなるので、強くなるに従って、そういふ様な事が出て来るのであります。その上のお守りが、指圧療法のお守りであります。そのお守りをかけて指圧をすると、指の先から光が出て病気がどしどし治る。懐へ入れておれば治るのであります。今にそれをお医者に掛けさせようと思ってゐるのであります。そうすれば、ラジュウムだとか種々な薬が要らなくて治るやうになるから、段々と人間が百才以上迄生きるといふ、昔の時代が来るのであります。
  指圧のお守りは百円で受けておけば、指圧丈で立派に御飯が食べられるのであります。その百円といふのは、一遍に払込まなくても月賦でもよいのであります。それでお守りは一円、十円、百円と三段になりました。 之からは、すべてが三段になるんで、観音様のやられる事はすべて三つになるんであります。
  今度越しました家とこの本部と東光社と、やはり之も三つになっております。三つになって、私の住居が丁度真中になり、恰度スバル星--即ち三つ星の形になっております。その星のオレゴン星といふのは四つあります。その真中に三つあり、一つは狂っていくらか近くなっております。丁度三つ星になってをります。その一角をスバル星といひ、世の中を救ふ星といふ事になっております。 丁度住ひも三つ星の型になっております。お守様もそういふ意味になります。
  も一つは、遠くの病人は、そのお守りを送ってやればいゝんです。そうすれば遠くの人も救はれる訳であります。それを一軒の家に一つ置いておけば、それによって病人がなくなり、初めて病気のない世界が出来るんであります。
  日本医学が行はれ、医者が食へなくなるんじゃないかといふと、お医者の懐へお守りを入れゝば薬などはなくてすみ、早く治るから食ふに困る事はなかろうと思ふ。それですからお医者からは苦情はなからふと思ひます。で、何れお金に不自由をしないお守りも出来ます。そのお守りをかけると、お金に不自由をしない。つまり貧を無くする事になります。それも時機が来ればお渡しする事になります。
  之はどういふ風にお金が入るかといふと、その人相応に入るんであります。何故ならば、人間は生れ乍らに持って生れた丈の徳分があります。その徳分一杯に入るんであります。今は徳分だけのものも入って来ないんですが、そのお守りによって徳分だけのものは入って来るんですが、生活問題、農村問題など起ると、之によって解決するんであります。観音会にお入りになれば、遠からずそういふお守りが戴けるんでありますから。今から前祝ひは早すぎますが……。
  で、薬、医者はどういふ訳で出来たかといひますと、邪神が自分の思ふ通りにしやうといふ、陰謀的企みからそういふものが出来たんであります。古い話は今必要ありませんが、要するに西洋医学から出来たもので、西洋医学といふものは、猶太人が作ったものであります。
  大体今日の科学は、今日の文明といふものはすべて猶太人が作ったもので、凡ゆる学問とか機械といふものは、猶太文明で出来たものであります。
  随而、今日の医学も猶太から出たものであります。猶太の奥の奥に世界を支配しやうとする一つの神があり、その神が自分が世界を乗とるのに就いて、世界の平和とか幸福を奪はねば、世界を奪る事が出来ぬ。それでそういふものを作った。
  フリーメーソンといふのを知ってる方はお判りですが、二千年も前からフリーメーソンといふ結社を造り、今日も盛んに活動してゐるんであります。陸軍中将の四王天延孝といふ人が研究家として知られてゐますが、このフリーメーソンは、最初石屋の組合だったんで、それがだんだん変化して斯ふいふ結社を造り、日本でも有数な人が沢山入ってるそうであります。よく知りませんが、幣原とか財部とかいふのも会員だそうで、あゝいふ階級に迄もあるんであります。
 日本にも相当侵入してゐますが、外国では英国皇帝とか、大きい金持ロスチャイルなどあり、そういふ階級は皆フリーメーソン結社の社友になってゐるんであります。社友は何事も非常に秘密にしてゐて、秘密結社になってゐるんで、社友が一寸でも秘密をもらすとすぐに殺されるんであります。ですから、結社の社員で抜出さうとしても、どうしても抜ける事が出来ぬ。抜けてどこへ行っても必ず殺されるんであります。此の間何かの本でそふいふ事の話が出てゐました。そういふ結社で、一名石屋といふんで、医者といふ事が矢張り石屋といふ事になります。そのフリーメーソンが医学を作り、病気を治るやうに見せかけて、人間の生命をとるんであります。此医学に全世界の人間が生命を任せてゐるんで、全世界の人間の生命は猶太人に任せてあるのであります。医者に生命を任してるんですが、その医者のやってる事は猶太人が造ったもので、深く考へると猶太人に全世界の人間は、生殺与奪の権を握られてるのであります。
  猶太人はその他の世界の金権とか、各新聞雑誌とか、言論機関一切を掌握してゐるのであります。そうして飽迄も世界を蹂躙しやうとしてゐるんであります。で、観音様は日本の神様で、伊都能売之大御神とも、国常立大神とも、天照皇大御神様にもなるんであります。で、観音様は、それをそうさせまいとして蹂躙されない為に、大変な仕事を始められるのであります。
  欧羅巴に於ける現れとして、ヒットラーであります。欧羅巴に於けるそれに対する反対運動であります。猶太人を追っ払ったり、御自分のマークは観音様の紋をつけております。で、観音様は、独逸丈はフリーメーソンのない国を先づ造られる。要するに観音様の国を先づ造られるのであります。ですから、独逸の背後には観音力がありますから、疲弊してゐるにも係はらず、非常な力があります。その証拠にはヒットラーの宣言によって、全欧洲がブルブルとしております。
  之は非常に不思議に見えますが、背後には観音様が控えておられるのですから、之から独逸は素晴らしい威力を発揮して行くものなんであります。ナチスの行り方は観音会と違って、何処迄も体的でありますから、観音会の如く平和的ではないのであります。
  それで、猶太は段々と追詰められて、結局頭下げ観音運動と握手する。即ち服従してくる。それで初めて大光明世界が建設されて行くんであります。
  先づ医学を改革するといふのは、そういふ大きな意味から出てゐるのであります。医学や薬を改革して、本当に健康な人間を作るといふ事は、猶太の支配から脱し、日本の神様に頭を下げる。そうすれば初めて体は丈夫になるんであります。ですから、之程結構な事はないのであります。
  光明世界に日本医学建設を書きましたが、猶太人は薬や医学で治るやうに見せかけて、生命を縮めてゐるんで、それを実に巧くやってゐるんであります。今迄の人間は一人も見分ける人はなかったんで、之以上のものはないと思ってゐたんであります。要するに騙されてゐたんであります。それを観音様が見破らしむべく、私に教へて下すったんであります。
  大きな事をいって自慢するんでも何でもないんで、本当に眼のさめる人が、本当の健康の意味を知った事になるんであります。医学の妨害をするなどといふ、そんな小っぽけな事ではないのであります。病人のない世を造るといふ、大きな仕事なんであります。
  そういふ訳でありますから、今後は、先刻お話したお守りも、大いに利用して戴きたいのであります。まるで夢の世界へ行ったやうであります。痛い所へ一寸載せれば治って了ひます。まるで嘘のやうな話であります。
も一つ、よく姙娠すると腹帯を頼まれますが、先刻の上領さんのお話で、歌に依って天地を動かす。歌により天地の神が感動するといふ事を言はれましたが、事実間違ひない事であります。私もよく歌を使っております。この腹帯も白い晒布に歌が書いてあります。それを締めると何事もなく安産するんであります。一々拵えるのは非常に面倒ですから、私の方で布を入れ代りも入れて、二本にして、長さ七尺五寸三分になっており、麻も入れてるし、お霊根利(ヒネリ)もつけて上げます。陣痛が起ったらすぐに之を戴けば、非常に軽く済むんであります。
晒布の歌は、  「胎(ミゴ)もれるこれの身魂を安らかに   守らせ給へ伊都能売之神」  といふのであります。
  以前は、守らせ給へ塩釜の神とかいたものですが、塩釜さんはお観音様よりずーっと下でありますから、それはいけない。お観音様といふと、水神様とか塩釜様よりずーっと位が上ですから、それ丈の御守護があるんであります。値段は決められませぬが、思召しでよろしいのであります。御親類など帯のお守りとして用意してありますから、いつでもお受けになったらいゝと思ひます。
  次に、観音様の宣伝の場合には、議論や理屈、之は非常にいけない。絶対にいけない。議論めいたり、理屈めいたりするのは観音行ではないのでありますから、その積りで、お蔭話は非常にいゝのであります。それで、講演も議論や理屈をよしたんであります。みんなお蔭話にしました。まして講演等で議論や理屈言ふのに間違がある。近頃はそういふ謬りがあるのでよしたんであります。
  それで、そうした話は、議論や理屈でしたりしては、観音様の御趣意と違ふから、顕著な御神徳のあった時は、御遠慮なく話して戴きたいと思ひます。折角の御神徳のあったのを蔵ひ込んでをってはつまりませぬ。戴いた御神徳はどしどし発表して戴きたい。それがやがて観音様へ感謝の意味になり、お話するのを慣れない、極りのわるい方は、支部長とか幹部の方に代って話してもらへばいゝのであります。お蔭は取り放しにしないで、沢山の人に別ける。皆に分配して上げる。そうすると後どしどしと御神徳を戴ける訳であります。

御講話 (昭和十年五月一日)

御講話  (昭和十年五月一日) 

  只今竹村会長がお話になりました如く、私は昨年の今日、麹町平河町へ病気治しに依って、大きな経綸を始めたんであります。そして、今年の一月元旦から観音会を創立しまして、丁度四ケ月経た訳であります。それで、その僅か四ケ月間に日に月にと申し上げたいのですが、実は日に日に発展して参りつつあるのであります。
  それで、八年前から観音様が種々な仕組をなされたんでありますが、それが皆五月一日から始まってゐるんであります。それで、今年も五月から必ずや一大転換するものと期待してゐた所が、つい一週間ばかり前迄は、ある点は非常に変らんとしつつあるが、目に見える何物もなかったんであります。すると、ひょっと清水さんが来た時、家を探して貰ひ度いと頼んだんであります。今迄家を探す時は必ず清水さんを働かした。そうすると必ずあるんであります。之は又妙な因縁で、家の事も去年から他の人に頼んだがないのです。所が、今度は清水さんに頼んだ所、清水さんは、「待ってゐました、いつかそういふお言葉があらうかと思ってゐた、いよいよ之で目っかるんだ」といふ訳で、早速探したんです。所が私の希望するやうな家があったんであります。一寸みた丈であったんで、そんな家が貸家として一寸みた丈であるべき家ではないのであります。
  応神堂の家を探す際には、九尺の床の間があって門構えの家で、家賃は七八十円の家を探すやうにといふ条件であったんですが、今度は、地所の高い所で堂々たる立派な家でなければ駄目だといったんで、なかなか難しい条件だったんです。所が二三日経って言って来た。そういふ家がそう早くある訳はないのですが、二三日前行ってみました処思ったよりはいゝ。先づ申分のないといふ家なんであります。所がそれを先のいふ儘にすると、先方で五月一日に契約したいと言ふのです。丁度五月の一日から大変した事になります。先刻契約が済んだ所で、之もなかなかそういふ風に家を貸すのは非常に偉い。容易に貸すわけはないのであります。 無論竹村さんの御尽力もありましたでせうが、兎に角非常にスラスラと思ったよりは楽に巧く行った訳なんであります。
それで、一日に契約して引越すのは何時かと思っておりますと、昨夕観音様からお示しがあって、五月五日に越すやうに、との事でして判ったのです。成程五月五日に越さす為に、わざわざどんづまりまで延したんだ。もしか早くすると五月一日に越す処なんですから、観音様の方で間際に決めさせたので、壁も損じ、変梃な西洋間があって、畳を入れたり方々修繕したりして、丁度五日に越すとよいのです。
  又、五月五日といふ事は大変観音様にとって意味があり、私が前に神界即ち神様の方の世界の経綸にかかった時、桃太郎として初めて仕事の為出た日もやはり五月五日でありました。今度の五月五日も矢張り桃太郎の仕事をする事になります。五月五日の鯉幟は今度の観音会の事の謎であったんであります。
  鯉といふものは出世魚と言って一番出世するものの意であります。鯉は魚の観音様で、真鯉は鱗が三十三枚あるんで、三十三枚ないのは真鯉ではない。先に勘定してみた事がありますが、慥かに三十三枚あります。 よく巧く行く事を登龍門をくぐるとか、又は登龍門を登るとかいひます。
  之は、支那のある川を鯉が昇り、段々昇って行くと上流の方に登龍門といふのがあってそこまで鯉が登るといふ事であります。鯉は出世魚といふ事から、五月五日に鯉幟を祝ふのであります。
      「江戸っ子は五月の鯉の吹流し  口先斗りで腸はなし」
といふ事がありますが、これも神秘のある事で、私は江戸っ子ですから、口先ばかりで腸は無いと言ふ方であります。五月の鯉幟の口--観音様がやっておられるとすると、いゝ方からいへばそれになるから結構であります。
  観音様は一番位の高い所から一番低い位へ落ちて、それから一番高い位へのぼられるのであります。
  今年の五月五日から一歩出世したといふ事になります。之は自分自身で出世したといふのではなく、惟神で観音様がそうするんであります。そういふ訳で五月といふ事は大変な意味があるのでありますから、今月から非常に模様が変ってくるんであります。観音会は一層急速に高く変ってくる。又、広く信者が出来ると共に、又高い所へ出来て来る訳で、それに就て不思議な事があります。
  今日東光社で、今新聞売ってる人が三人ありますが、先にはもっと沢山おったんですが、方々へ散らした為に丁度三人丈残ってゐるんであります。それが、今日の売れ方が一人が五十一、一人が六十一、一人が七十一で丁度五六七となり、みな一部宛余計に売れてゐるんであります。一部宛余計に売れたといふ事は、一は初まりであります。いつもいふ五六七はミロクですから、今日がミロクの始まりといふ事になるんであります。
  も一つ不思議な事は、一月から先月まで四ケ月間に、御神体を奉斎した方が三百六十一人あるのでありまして、之も五六七の始まりといふ事になります。斯の如く実に神秘であります。
  今迄、新聞を長い間売っておりまして、前には大抵愛善新聞売ったんですが、長い人は三年も売っております。所がその事はすべて、今日東方の光を売る稽古になっております。今日のように三人行って、五六七と言ふ不思議な数字が出た事は未だ嘗てない事であります。
  何故観音様は、そういふ不思議をなさるかといふと、それは観音力は斯様に自由自在である事をお見せになるんであります--でありますから、どんな事でも訳ないといふ事を随分私は今迄見せられたのであります。
  その結果、私が観音力の絶対を信じた、病貧争のない世界、或は世界統一位も何でもなく出来るといふ確信を得られたんであります。で、之から第二段の経綸の初めになりますから、抱負として其経綸の一端をお話する訳であります。梯子段なら今迄一段上ったんで、今日から又一段昇るのであります。
  此前、応神堂が出来てから応神堂に対し本部が出来ました。所が今度の家は応神堂よりはずっと立派ですから、それに相応して本部が出来るんであります。出来るかどうかじゃない、必ず出来るんであります。人間のやる事ですと、出来るかしらといふ事がありませうが、観音様のやられる事ですから、必ず出来るんであります。それが出来ると、今度は借りないでも思った通りなものが出来るんで、段々大きく拡がって行く。之は実に判で押すよりも間違なく行くのであります。
  いつもお話する、大光明世界建設、病貧争のない世界といふ事は、一体どういふ風にすれば出来るかといふ事になりますが、之に就てはその根本があります。何でも物事には根本があります。根本さへ出来れば、枝は放ってをいても出来て了ふのであります。
  然らば根本は何かといひますと、この世界は人間でなっておりますから、根本は人間であります。
  人間が立派に完全になればいゝ。その根本が立派になればいい。で、人間は霊と体、精神と身体とで成ってゐる。それが本当に立直ればそれでいゝんであります。すると、その根本は人間の精神と肉体、それを健全なものにする事であって、それをどうすればいゝかが問題であります。
                      ☆
  人間といふものは、健康で働かしむべきものに神様から拵えてある。決して病気などすべきものではない。病気するのはよくよく天理に外れた事、間違った事をしてるに違ひない。
  それで現代は病気の人ばかりで、健康な人といふものは珍らしい。たっしゃで健康ならば結構といふ。元来病気はあるべきものではない。病気が治らねば、世の中は直らぬ。
  よく医学をわるく言ひますが、医学がわるいのではない。有の儘言ふと医学ではなかなか病気が治らぬ。治らぬ為に種々の方法をとって、機械とか薬が要るのであって、今日の医学の病名とか機械とか、薬の名を皆覚えるのは不可能の事と思ひます。本当に治るものならば、たった一つでいゝと思ふ。何となれば、病気の原因は一つですから、その病気の原因といふのは罪穢であります。
  それで、その罪穢を取る機械が出来れば、病気はみんな治るのであります。治す方法は一つなのであります。その人の弱い所へ罪穢が溜り病気になるのですから、その罪穢をとる薬なり、機械が出来ればよいのであります。それは、薬や器械ではとれぬ。そういふものを作ったら治るかといふと、ロボットならば科学で作ったもので治りますが、もっともっと人間といふものは、想像もつかぬ霊妙なものでありますから、どうしても、人間の肉体の問題は科学より深い神秘的なもので解決せねばならぬのであります。 所が、その器械が出来た。それを観音会で発表したんであります。即ち罪穢を除る器械であります。それは人間を使はねば出来ない。
  人間は神が生された。神の代りが出来るものなんであります。人間を使って人間の罪穢をとるのであります。今度、本部で指圧療法を始めるといふ事は、罪穢を許す、罪穢吸収機関を発売するわけで、指圧療法の習い度い方はどなたでもお教へする。教へる部分もあり、頭がわるいとか、目がわるいとか、肩が凝るとかいふのを直す急所を教へるんであります。
  今仮りに肺のわるい人があるとすると、医者は肺病とみます。所がその肺の元があります。役者が舞台で踊るにも、楽屋で化粧し、創作家の脚本によって動くのであります。それ故演劇は楽屋と脚本が元であります。で、その様に肺の痰が出るにはどっかにその本があります。それが医学では判らないのであります。
  私は観音様から教へられた所により、急所を教へるんであります。急所をやって行きますから病気は必ず真から治ってゆく。現はれた所を治すのは制える丈のもので、丁度、芝居をみて云々するやうなもので、どうしてもその楽屋の方を治さねばなりません。それには、先づ一ケ月以上かゝります。一ケ月程で判る人もあり、人によってはそれでも難しい事もあります。
  も一つは学校で教はる如く覚えたのみではなく、世の人を救ふといふ大信念がなくてはならぬ。
  世界人類を救ふ、大光明世界建設の為に力を竭すといふ高い意志がなくてはならぬ。そういふ高い意志がないと間違ひが起るのであります。そういふ間違ひない意志、人格的にみて間違ないとみれば、分院の開設を許す事になるんで、だんだんそういふ人をふやして行くんであります。
  そして、岡田式神霊指圧療法はとてもよく治る。料金も安く短時日で治るといふ信用を得、又非常に親切で真剣に治すといふ、凡ゆる事の信用を得なければならぬのであります。
  そうすれば、観音会へ入る信者が沢山出来る。そうして、入った人は病貧争がなくなるといふ風になる。結局、各町内に一個所宛指圧療法の分院が出来るやうになり、初めて人間は薬や医者の治し方は違ふ。日本医学より他に病気を治すものはない。どうしても、日本式健康法でなければならぬ事を社会の人が知って、それで初めて健康問題は解決するのであります。そういふ観音様の御目的であられるのであります。でありますから、之からは指圧療法の先生の養成をする。夫(ソレ)が罪穢を除る器械になるのであります。
  今迄凡ゆるものが皆枝葉末節に走っております。之が実に不思議であります。元を閑却して現はれた枝ばかり攻めて、それを無くそうとしてゐたんであります。
  先刻お話した通り、あらゆる方法で人間にわるい事をさせぬ機関を作るといふ事は、要するに枝葉末節の方法であって、観音会はすべて根本をせめる。無くすんであります。そういふ末節の機関法律とか警察を無くすんであります。それは個人の心を治すんで、悪い事をしない心の人間を造ればよいのであります。それでこそ初めて人類が人間としての価値がありと思ふのです。打っちゃらかしておいても悪い事しない。之が万物の霊長たるものゝ所以であります。
  基督教では、人は神に似せて作られたといふ事がありますが、神に似せて作ってあっても行ふ事が獣であってはいけない。少くとも四足の境涯を抜け出た人でなくてはならない。
  西洋文明の方は、人間が悪い事しない様な道具は実に発展しております。獣を入れる檻は実に巧く作ってあると言っていゝのであります。
  日本の大和魂は檻も何にも無くても、決して悪い事をしない。そういふ高等な人間を作る。それが観音会の主なる目的であります。ほったらかしておいてもわるい事をしない。病気をしない。之丈で後のどんな問題も解決するんであります。そうすれば、食へない人間がなくなる。
  人間が目につかない事で金を払ふ約束を実行しない為に、どの位円滑を欠いてゐるか判らない。人間が儻(モ)し約束を履行するやうになれば裁判所などは要らぬ。帳簿の記載なども--。
  金に困る事がない。実に円滑極まる。貿易の発展は大変なものであります。賄賂をとったりなどせねば貿易が出来ぬやうでは非常に困る。賄賂をとった為どの位手数がかかるかわからぬ。その賄賂でとった金を以て病院を建てたり--こういふ犯罪まで行かない程度のもので、人間が多くの労力を失ってるのは如何にも大きい。
  こういふ無益な事が無くなりますから、生産能力は非常なものになるので--大光明世界が出来ると、人間は三時間働いたゞけでも食ふものに困らなくなる。今日の交通機関や、衣食住等とても善美になるんであります。庶民一般も非常に立派な着物を着る。立派な家屋に住む事になるんであります。今日の労力の少くとも半分は、軍備とか○○○とか病気の為、或は機械の為費す。種々の監獄とか警察をつくって、わるい事させぬ種々の機関を作る。学問にしても余計な学問が半分以上あります。そういふ事の為に食って楽しむといふよりは、悪の為にする入費が多い。悪に属する苦しみ楽しみの方面の労力は、八九割位の見当と思ふのであります。
  そう考へる時、人類は如何に不知不識の間に、間違った事をしているかゞ判るのであります。観音様は、そういふ間違った事を段々之からかへて行くんであります。
  それでは、そんな間違った世の中を何で神が作ったか。万能の神として可笑しい理屈になる。所が元来人間は、又凡ゆるものは、霊と体とで出来ております。之を別ければ、陰と陽、火と水の如きもの-更に分ければ、善と悪になります。霊は絶対の善、体は絶対の悪になります。といふやうに考へて行くと判りますが、絶対の善と絶対の悪と両方あるのであります。物質は全部悪で出来ております。で、悪はいかん--とは言へぬ。善悪相混じて、初めて森羅万象が出来てゐるんであります。
  之を発達するのに、物質を発達させるにはどうしても悪でなくてはならぬ。善ばかりでは物質の発達は出来ぬのであります。
  それで神は物質の発達の為に悪を勝たしたんであります。然し全然悪を勝たせば世界は破滅する故、悪を或程度迄勝たしたんであります。戦争とか病気とかと雖も、その為に必要だったんであります。
  一言例を挙げて云へば、皆、嫌ふ黴菌でありますが、之が大変必要なものなんで、虎列剌(コレラ)とか、赤痢とか、肺病とか、窒扶斯(チフス)とか、黴菌とかゞ絶対必要であります。若し之がなかったならば、人類は滅亡してゐるんであります。それは変だといふやうにとれますが、あれは何だかといふと人間の汚物を掃除すべき役で、之を媒介する蠅は大変な役割をしてるんであります。之は大変衛生に逆らふ様ですが、凡ゆるものは、不必要なものは存在を許されぬのであります。
  万能力、絶対力は不可なる物は一瞬にして殺すんであります。たゞ人間の目でそれをわるいと勝手に決める丈のもので、神の方では必要なものであります。
  黴菌は何の為にあるかといふと、人間は汚いものが溜るんで、それを掃除しなければ早死するんであります。 で、止むを得ず黴菌が作られたもので、窒扶斯だの肺炎だのある為に人間は長生してるんであります。私も三十位の時腸窒扶斯をやったんで寿命がのびたんであります。つまり汚い物が溜るのを、黴菌が附いて毒素をとるのであります。腸チフスだの赤痢だのいふのは、掃除する工作の為病人を起す。でありますから人間に汚物が溜らなくなれば、黴菌はなくなるのであります。
  ですから、大光明世界が建設されれば、伝染病などは無くなるんであります。それは沢山溜る事がなくなるから必要はなくなるのであります。で悪の必要があって、神は悪を許されたんであります。もしか悪がなければ戦争とか、争闘がなく種々な発明などが無かったのに違ひない。
  若し欧洲大戦がなかったならば、飛行機とか無線科学は今日迄に発達しなかったでせう。その為に、人間は如何に苦しんだ事か知れません。それで不知不識文化が発達したんであります。
  之迄発達すれば、大光明世界が出来る条件が備わった。もうこゝいらでよさうといふのが神様の思召しなんであります。実に有難い時期になったものであります。物質文明の発達は逆でなければならぬ。それで悪を上にし善を下にしたんであります。之をさす為に、猶太(ユダヤ)人を使って悪で発達せしめたんであります。で悪の役をしたのが猶太人で、猶太人の本体は素盞嗚尊で素盞嗚尊の本体は伊邪冊尊であります。
  今迄の人類は病気をし、悪い事をしたがる人間にしてあったのは、そういふ為にしてあったので、之はよく云ふ事も悪く言ふ事も出来ないのであります。止むを得ずの事であります。で何時迄も之を真理としてゐてはならぬ。目醒めなければならぬ。それで、今度はどうなるかといへば、善悪一致になる。それは善の世界であります。善の世界でありますから、善にはあらず悪には非ず、善であり、悪であり、善にはならず悪にもならぬ。といふのは善が上に位する。善を上にするから人間を苦しめない。今日の発達した文化を非常によく発達さす。それを今後観音会が中心となって実行する。見本を見せるのであります。観音会の人、観音会の家庭が、その見本になって行くんであります。
  その観音会の人は観音行をすればいゝ。つまり、当りまへの事をしておれば家は富み栄え、今迄の社会の人が羨む家庭が出来る。段々進んで行くに従ひ立別けがついて行くんであります。
  益々はっきりする。観音信仰の人は益々よくなる。出世をする。大きくなる。そして、観音会員の家庭は目立ってよくなってくる。
  もうそういふ時期になると、宣伝の必要がない位になる。嘘のやうな時機が来るんであります。今迄始終云って来た事が、順々に出て来つつあるのであります。でありますからいよいよ進展の時期となり、今月から一層顕著になって来るんでありますから、そういふお考へをもってやられるやう。そうなれば、今迄より判る人が多くなってくる。病気の治し度い方はどしどし開放的に授けますから、申込んで下さい。
  いづれ大きな本部も出来、日本医学の病院もつくりますが、その時は西洋医学も、漢方医学も、いくらか取入れるかも知れません。そして日本医学をつくり、如何によく治るかといふ事が判りますから、逆輸出する積りであります。医学は今以て大輸入超過になってをります。之を段々、日本医学を造って輸出する考へであります。でありますから、大変国益になると思ひます。指圧療法をするにはいゝと許可を与へればお守を上げます。それへ字をかき懐へ入れると観音力が出るんです。そういふものを一つ百円で売ります。百円は現金でも月賦でもよいので、たゞお守りを懐へ入れてやれば、飯が食って行けるんですから楽なものであります。そういふお守りを大いに輸出しやうと思ふのです。西洋の薬のように種々つくらなくても、一つで何千人何百人と出来るんですから。
  実際言ふと凡ゆるものは、日本でいゝものが出来る。そうすると、初めて世界を統一する事になる。又お守をかければ、わるい事が出来なくなるお守りも出来るから、悪人をなくすも訳はない。又貧乏にならないお守りも出来るんであります。ですから之は実際に出来るんであります。
  ですから嘘のやうな本当の事が実現するんですから、人類社会の組織はすべて大転換をする。自然にするんで、それが観音力なんで人間が苦しんでしない。楽にやってゐて大変な事が出来る。骨を折らない程観音力であります。じーっとして私は家にゐればよい。みな観音力で出来るんだと、観音様は言はれるんであります。たゞ座ってをれば必要なもの又必要な人が集って来るんであります。それは、私が引張るんでなくて、先方から来るんであります。

御講話 (昭和十年四月十七日)

           御講話  (昭和十年四月十七日)  

  西洋医学と日本医学とは、全然相反するものにして、其差は日の出づる国と日の沈む国との差ある程の相違である。日本と西洋とは、それ程の差があるのである。私の言葉と医者の言う事と、全然反対に行えば良いのである。真の健康体を欲するならば、一日一回お茶漬を食する事、お菜は香のもの、特に菜葉の漬物が良い。これを行えば、諸々の病毒を去り、健康体となる事を得る。特に菜食主義が一番よろしいのである。肺病又は諸々の薬の中毒等を去るにも至極よろしいのである。

御講話 (昭和十年四月十一日)

御講話  (昭和十年四月十一日)

  私は日本医学といふものを拵える事と、それから、宗教の本当の行り方、本当の考へ方そういふものを段々と発表してゆくつもりなんであります。で、何が人間は結構であるかといふと、先づ何より彼より第一番に健康である事は、いつもお話する事であります。仮令、如何なる結構な宗教や救ひが出やうとも、人間を健康にする力がなかったら、決して結構な宗教でも救ひでもない。
  どんな偉い方でも、どんなにいゝ身分であっても、病気で苦しんでゐて何が結構と言へませう。どうしても健康を解決し得るものでなくしては、本当の宗教ではない。何年何十年と信仰してゐても病気で早死するものがありますが、それは決して本当のものではない。
  段々観音会が進展して行くと、観音会には病気がない。もしあれば、観音会をやめた人か、お邪魔する人かで、病人はないと私は断言するんであります。之が段々拡がって行くと、病人のない団体が出来るんで、恐らく世界始って以来病人のない団体といふものは、未だ聞いた事がない。それで病人のない世となれば、貧乏の半分は解消するんであります。
  今貧乏の原因は殆んど病気で、病気の為に稼げぬとか、病院は高くてなかなか治らぬ。金持ならいゝが中流以下ではとてもかゝれぬ。重病などになると、先づ長い間稼いだものさえも潰れて了ふ。少し重い大病などがあれば大抵の身上だったらふっ飛んで了ふ。之は多くの人々の普通の道程であります。
  今日皆さんが稼いで貯金するのは何の為かと申しますと、何時病気になるか判らぬ。病気になったその時病院へ入れぬやうな事があったらといふ心配からであります。
  それで病気は金で治ると思ふより仕方がない。一家に四、五人の家族があるとすると、大抵は何年目かに病人がある。するといくら稼いで貯金をしててもすぐに無くなる。そこで、病気がなくなり健康であれば、貧乏になる大半は救はれる訳であります。で、貧乏が救はれれば争ひがなくなる。大抵の争ひは経済上の問題の場合が多いのであります。ですから、先づ病貧争の大部分は健康から解決出来るといっても過言でないと思ひます。
  それで一方、精神方面の事をお話すれば、本当は他宗の攻撃するなどよくないのですが、よくないけれども黙っておっても仕方ない。黙っておって解決すればいゝのですが、黙ってばかりいても解決がつかぬ。やはりいゝ事はいゝとし、悪い事は悪いとせねばならぬ。
  それは、確かに既成宗教に依って救はれてる点は沢山にあります。若し釈迦、基督が現はれなかったならば、もっともっと人類は悲惨な状態になってゐたか知れない。如何に今日迄人類を救った事か、その点は大いに感謝しなければならぬ。で、それでも今日のこういふ社会を結構と思ふ人はない。それはどこまでもよくしなければならない。進展止むなきは神の御心であります。でなくば、宇宙意志とも言へます。
  人類は是まで進化したけれど、もっともっと、より一層高等の文化をつくり、高等の人類にしなければならない事は当然の事であります。で今迄の宗教の力ではそれ以上高等にはならない。
  それには、それ以上に人類を進化せしむべき力が要る。それが観音力であります。例へてみれば、今日人間は大変な進化をした。成程、野蛮未開の時代からみれば、大変な進歩をしたんであります。成程、徳川時代には試し斬りとか、切取強盗等といふものがあって、人心は安心して暮せなかった。今日は電気など出来て明るくなり、何等そういふ心配はなくなった。それは大いに感謝しなければならぬが、それでも、今日の世から警察とか、法律をとれば果して安全かといへば、之は誰しもうなづけぬ事であります。各地に厳めしい警察があり、裁判所あり、コンクリートの牢獄あり、各町には交番が幾つもあって、巡査が始終見廻ってゐる。それでも尚足らず、刑事や特高、探偵などが扮装して隈なく徘徊して、種々の取締り機関があって初めて安全を得ております。
  それでも未だ本当じゃなくて、刑事民事にも種々の設備があり、或は人事相談所があり、不倖せな者に対しては、養老院だとか孤児院だとかがあり、或は救世軍だの本願寺だなどといふものがあって社会事業に尽し、法律は益々微に入り細に渉り出来てゆく。それで初めて人類は安心してゐるやうだが、それでも未だ安心が出来ない。昨日の新聞でみると、少年神兵隊といふものが出て、偉い人達、西園寺など国家の元老、あゝいふ人達の身辺を狙ってゐる故、此間の満洲国の皇帝がみえた時でも、お側でお顔が見えぬ位に警戒が厳重であります。
  そういふやうに種々と人間を取締る道具は実に完備したといへる位にある。此為に使ふ費用は大変なものであります。それ程迄にしても、未だ未だ人間はわるい事をするんであります。未だ未だ法律の網をくぐる悪い人間が沢山にゐるのであります。金を借り倒したり、家賃をふみ潰すとか、詐欺、万引、強盗、殺人など、それをくぐってわるい事するものが未だ未だ沢山ゐて、子供でも感化院などあり、或は宗教的感化をする設備など沢山にある。
  それで人間は文明になって有難いと言ってゐるが、未だ未だ神の御目から御覧になれば人間といふものは仕様がないのであります。
  種々とおっかない道具立てをして、僅かにわるい事をしないやうにしてるだけのもので、恰度、虎狼を檻に入れて監禁しておくに等しいと思ふのであります。之で万物の霊長だなどと威張ってゐるのは恥しくないかと思ふのであります。

御講話 (昭和十年四月五日)

御講話  (昭和十年四月五日)

  天津金木は、天照大神様が押込められし為御身代りとして御作りになり伝えられたるものにして、之が判れば、森羅万象総ての事は皆判るのである。されど、今書物等によって是れを知ることは絶対出来ないのである。昔は口伝えにより伝えられ、稗田阿礼まで伝えられた宇宙の魂の如きものである。私は、浦和にて古文書を見たる時、霊感により知ったのである。私は五十万年以前より五千年前迄の歴史を知ってゐるのである。それは、神憑りになった時知らされたのである。
  昔の古い文書は神武天皇がお焼きになって終ったのであるが、其時、一人の家来が一部の物を持って逃げ、是れをかくして土の中にいけ込んで置いた。それが今に伝えられた。是れは、武内宿弥の家に伝えられ、例の天津教の武内家にあるものにして、武内家には、その中にあった三種の神器の本物を持っているのであるが、宮内省に献上しようとした時宮内省では受付けなかったのである。
いよいよ大光明世界を建設するのは、二十五年位後の事にして、これは世界統一の時の事にして、日本だけなれば、まだ早く出来るのである。
日光東照宮を型として戦場ケ原に一大神殿が建立される。其の柱の如きは、大理石の丸柱の上に金にて龍などを書きたる雄大なるものにして、其時分になれば、金等何程でも出るのである。地軸は金の柱にて、直径十里位は太さがある。これを以ってしても何程今後に於て出るか判らんのである。この時の事を祝詞に書いてあるのであって、瓦の如きも金なのである。「多宝仏塔聳り立ち、七堂伽藍は霞みつつ、黄金の甍燦々と」とある如くに事実なのである。戦場ケ原は海抜四千尺の高原にして、三里四方平面の地にして、川あり滝あり、実に立派な処である。

御講話 (昭和十年四月四日)

御講話  (昭和十年四月四日) 

  観音様が布咀落迦山にお降り遊ばして、南海大士と申されて居られた時の事である。お釈迦様がお訪ね致して色々お聞きになり、初めて今迄知らなかった事、又悟れなかった事を承り、本当の悟りに入られたのである。
  此の時よりお釈迦様は、「顕真実」となられた。然し、此の事は時の来る迄発表する事を許されない事なので、致し方なく法華経を其の後お説きになられたが、只一部分を明すのみにて止めたのである。最後の世に現はれて、光明世界をお建てになる方は、観音様である事も判ったけれども、是れも発表する事が出来なかった為に、普門品を説かれて観音様を礼讃されるに止められたのである。
  仏が滅する事も総て知られたる為に、「仏滅の世が来る」とお説きになり、此の世は火宅だ等と申されたのであるが、其の実は、仏の時代の事であって、一度観音様がお越しになれば、此の世は救われる事も御存じになられたから、時期の来る迄を仏教により少しでも善い方へ導く様にと弘められた迄であって、仏教は永久的の教でない事は、是れを見てもよく判る事であって、お経も総て一部づつを判らしたのである。


御講話 (昭和十年二月十一日)

御講話  (昭和十年二月十一日)

  只今の東光男氏の講演は、実に面白う御座いました。余程老巧にならなければ出来ません。人を呑んでかからねば出来ません。今日は紀元節のお目出度い日であります。紀元二五九五年でありまして、西暦一九三五年とて、是れも五年となって居ります。今年から五六七となり之が或重大な意味になります。
  今東氏が、俺がやらなければ病貧争の無い世界とは成らんと申されましたが、私から申しますと、私が言うんじゃない、観音様がお前がやらなければ駄目だと申されるのであります。それはいささかずるいかも知れませんが、今迄の罪穢が出て亡びる者も打倒れる者も出来るから、岡田がやったとなると恨まれるが、観音様がやったのだと言えば文句はありません。
  今日の紀元節についてそう思ったが、荒木大将や丸山鶴吉氏のお話を聞きましたが、非常に日本精神を高潮しておりましたが結構であります。これも非常に永久の流行であります。
  私は今東氏のお話の通り、観音様の後の艮、観音様の艮に当る橋場で生れて丁度十五迄、浅草は東京の艮となります。又、東京は日本の艮に当り、日本は世界の艮であります。東と申しましても、太陽は東というよりは、艮によった方から昇ります。余程艮に縁があります。
  浅草観音の御神体は、明治時代になくなっているという事は事実らしいのであります。彼方からも此方からも、これが浅草観音の御神体だと言って出たが、戦国時代には源頼朝や楠正成や徳川家康と言った武将が陣中へ祭っておりました。これ等は皆一寸八分の観音様の為に、所々から沢山出る訳であります。本当の御神体は浅草の橋場の私の生れた所の十軒ばかり先の長勝寺に安置してありまして、御開帳中浅草寺へお移しして居ったのであります。
  私の曽祖父というのが、橋場から直き五六丁の処に浅草町と言う処があります。其処で質屋をして武蔵屋といって居りました。その当時その辺での相当の財産家で、義侠心に富み今の町長位の資格があり、人を助ける力があり、鳴らしたものでした。武蔵屋喜左衛門とて其界隈での幅ききでありました。明治になるまでやっておりましたが、何だか知りませんが、其当時御神体を質に預けて、そのままになったのであります。尤も観音様は宮戸川へ流れて来て居たから、流れるのが因縁かも知れません。私の父の乳母が私の家に御神体があったと言っておりました。義理の父の兄が失敗して、それが人手に渡したかも知れませんが今はありません。
  私の家の寺は三河島の観音寺で、自分は子供の時から観音様に非常に縁があると思いましたが、今になるとよく判った訳であります。それから先程、荒木大将のことを申しましたが、そのお話の中に三種の神器というお話がありました。これについてお話申し上げます。
      八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)              +
      天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)              +となって居ります。
      八咫鏡(ヤタノカガミ)                     +
  これを仏界では、玉は観音、剣は阿彌陀、鏡は釈迦となります。これが三人のみろく様となります。これは、今迄誰も言った人はありません。又、玉は日になり、剣は月となり、鏡は大地となります。これはよく間違はれて説かれて居ります。
  玉は丸いものでありますから、太陽であります。月は本当の剣の形となって居ります。「つるぎ」をつめると「つき」になり、鏡は角が八つあり、八角の形となります。大地のことを、大八洲と言いますが、鏡は大八洲の形となっているのであります。数から申しますと、玉が五、剣が六、鏡が七となります。これが三種の神器なのであります。
  それから、日本が玉で、西洋が剣で、東洋が鏡となります。ですから、西洋は武力を使って他国を侵略する様なこととなるのであります。又、東洋は土だから年中蹂躙されて居ります。
  印度の言葉は陰陽の陰、度は土が本当であります。「陰の土」であって、印度は一名月の国であるから陰であります。又、印度は土の国でありますから、陰の土と書く のが本当だと思います。
  三種の神器は形態的の物質に限らず、凡ゆるものに三種の神器があります。舌から言葉が発せられ、舌は言霊の剣であります。舌の先で何でも問題を起すことも切ることも、威服させるのも舌の先で出来るのであります。よくあの人は舌が切れるというのも剣であります。鏡は心の事で、心の鏡が曇るとよく写らんから、人に騙されたり致します。
  三種の神器は至る所にありますが、一番大きいのが世界的の三種の神器であります。神様で申しますと、玉は天照大神、剣は素盞嗚尊、鏡は若姫岐美尊となります。尚又、主師親から申しますと、玉は主で、ゝを上へ打てば主となります。剣は師であります。鏡は親になります。丁度よく合って参ります。
  釈迦が鏡でありまして親であります。阿彌陀も観音も下ではありますが、釈迦が親となるのであります。阿彌陀様も観音様も、お釈迦様が産んだわけであります。昔から偉い人を産んだ其の人が偉いというが、それは違います。ムッソリーニより母の方が偉いという人はありません。
  「主師親」を一つにして権力をもって居られるのが、天皇陛下であります。これがわかれば、今言った様になるのであります。もっと分ければありますが、これ位にしておきます。物質と致しますと御皇室の宝となります。今言った様に、印度と言う字の様になっている字があります。これにとらわれて色々な事があります。
東氏が浅草観音の写真を写しましたが、浅草観音に「施無畏」と書いた額があります。観音様は「施無畏菩薩」というから書いたものかも知れませんが、意味が今迄判らん-。「施して畏れ無し」では判りません。これは当字であります。本当に解釈すると「施無畏」とは、言霊の霊返しで、セムはスとなる。畏はイで、イとは位であって、主の位であります。それを匿してあったのであります。「施無畏菩薩」は、主の位を持った菩薩という事であります。是れから斯ういう事になるのであります。
それから、この間も高天原のことを話しましたが、天の岩戸は何処かと言う研究がありますが、扉が信州の戸隠山迄飛んだのだから何処か関東にあるという説がありますが、これは何処にもあります。小さくは人間の心に岩戸があります。観音様の事を知って悟った人は、心の岩戸が開けたのであります。それですから、話しても観音様の事が判らん人は岩戸を堅くしめているのであります。話をしたり本に書いてあるのを見て開く人もありますが、開く人が少ないのであります。
  心の岩戸に光を与えると一番早く開きます。一番の根本は、世界の一番根本の岩戸を開けることであります。今はあらゆる階級や国魂が締っております。岩戸が開けば、天照大神様が住まっているのであります。心の岩戸を開けば、太陽の光明を拝めます。観音様の光を感じて拝める人は、心の岩戸が開いているから拝めるのであります。
  心と魂とは違います。人間の五体全部に行き渡っているのは、精霊でありまして、その中心が心であります。其故中心の心は芯であります。心の中に又、魂が入っております。魂は非常に小さいもので、心の百分の一であります。又、心は精霊の百分の一で、体からは千分の一でありますから、九分九厘と一厘となり、又、千騎一騎の事にもなります。千分の一の魂が、千倍の体を左右するのであります。
  心の岩戸が開けるとは、魂を包んでいる心が開けるのでありまして、心の岩戸が始終堅くなって居ったのが開けるから、魂が光を拝む事が出来る様になるのであります。今迄の教や道徳では、魂迄届きません。心迄より届かなかったのであります。それで、世界が精霊ならば、日本が心となり、東京が魂となるのであります。凡ゆるものが皆三段になっているから、これも三段になっているのであります。それから、この東京が精霊とすれば麹町が心であって、宮城が魂となるのであります。それで、この精霊及び心と魂が、霊と体となっております。要之、天地となっているのであります。精霊の天は上半身、下半身は地であります。然し、下半身と申しましても、体半身ではなくて、首から上が天で、下が地であります。天の中心は脳髄の真中にあります。地の中心は臍であります。臍のことを中腑というのは、此意味であります。ですから中心が天地になりますから、魂が天地になります。別々の様ですが感合しております。
  昔は腹で考えるという。今は頭で考えると言いますが、これはどちらでもあります。両方が感応し合って考えが出るのです。吾々が考へるにも、頭や腹で考へる様な気が致しますが、之は両方であるからであります。然しこの命令権は頭にあります。  それは天であるからであります。未だ詳しく解けば説けるがその位にしておきまして、是をもっと徹底さして行きますと、天皇陛下のお働きに迄話がなりますから、面倒になりますから止めます。
  観音会の仕事は、人間の心の岩戸を開ければ、世界中開かれるのであります。宇都売之命が踊って神々様を笑はせますが、観音会には笑が必要なのであります。何故かと申しますと、議論や説教では岩戸は開けません。笑はにこやかであります。笑い合う様でなければ心の岩戸は開けません。議論や小言では逆に岩戸が締ってしまいます。観音会は話などせず、祭らして拝ませればよいと云うのであります。藪から棒に祭れと云っても駄目でありますから、御神徳話をすればよいのであります。それで話が出来るのであります。
  今迄の宗教は教えとか説教とかで責めて行きます。理屈や言葉の数で責めるのであります。天理教では四時間でも五時間でも座ってやってますが、間違いであります。値打のないものは説明がいりますが、価値のあるものは説明はいりません。話をすれば判ります。大いに笑う気分でなければ駄目であります。本当の岩戸は開けんのでありますから、観音会では笑冠句を奨励して居ります。他では此の催しはやりません。
キリストは笑は罪悪だ。笑い合う処罪悪生るという、牧師の説教は、まるで泣声をしています。これでは岩戸は開けません。大いに笑って大いに朗かでなければ駄目です。朗かな人の事を明るいと言いますが、明るくしていねば天国は開けません。
「光明世界」でお読みになったでしょうが、阿呆文学は長く続ける心算ですが、此次は、「目下罪障消滅中」というのであります。其次は、「大千誤魔化し世界」だから、本当の事を言うと自分が暴露されるから、言う事が出来なかったので、あらゆる世の中の事が皆誤魔化しになっているから、迷いを生ずるのであります。仏教でも何でも、判った人がないから山へ籠ったり、断食をしたりして、難行苦行しても稍近い所まで行くが、結局は今一歩の所で判らない事になってしまったのであります。坊主の堕落は、物が判らないから半やけになるから、あのようにだらしが無い事となります。今度は判らない事を世の中に知らせるのであります。私が、これから話をするのが、第一歩であります。
  阿彌陀様が一番偉いと言う人と、又、お釈迦様が一番偉いという人がありますが、皆間違いで、誤魔化しであります。東氏の言われた奉仕的大安売も、高いものを売りつけ様とする手段より外ならないのであります。仏教に限らず、総て世の中の事が皆其の通りであります。皆誤魔化しであります。私が段々世の中の事を暴露致します。それには、第一に怒らん様に滑稽に言うのであります。滑稽に言えば笑いながら其の人達が改心致します事になります。
  観音様は世の音声を観ると解釈している様ですが、世の音声を見て総てを悟って済度すると言ふが、観音様はつんぼではありませんから、音を見ないでもよろしいのであります。私は生れてから未だ曽つて音を観た事はありません。此の次は観音様のお話を致します。今迄の世の中のあらゆる事は判らなかったから、皆誤魔化しで終って居ったのであります。誤魔化されて感心して随喜の涙を流して居ったのであります。
  仏教の解説も皆こじつけであるばかりであります。そういう事を余程暇な人があったと見えて、盛んに奨励して居たのであります。禅宗の坊さんや信者達がよく言ふ、隻手(セキシュ)の声を聞くなんて真面目になってやっているんですから、人間も馬鹿馬鹿しいものであります。この隻手の声には色々解釈がありますが、私は、隻手では音はない、双手(モロテ)で音がするのであります。私は隻手では音はないと解釈いたします。それから、よく聞く事でありますが、肉体はあるのでありますが、或人は肉体はあるが事実は空だといいます。
  あの生長の家の谷口正治氏は大本時代に、私も知って居りますが、矢張りこれと同じ説でありますが、この谷口氏は病気は仮のものであるから心で健全だと思えば癒るというのでありまして、これ等が誤魔化しの第一等のものでありまして、斯ういう風に、今に至るものを変てこに、曖昧にしてゆくので判らなくなります。親鸞の言った、「善人は救われる、况んや悪人をや」と言う事があるが、是れを聞いて信者が皆喜んで居りますが、是れが誤魔化しの傑作であります。此故に霊界に沢山居る悪魔が、世の中を悪化する様に出て来て、この連中に憑って活動するのでありまして、世の中を悪くする悪魔の仕組であったのであります。此の通り阿彌陀の悪の働きをやったのでありますが、それも天地経綸の重要なる悪の役割をしたのでありますが、結局、これも善になるのであります。
  阿彌陀の陀の字が非常に悪の働きとなるのであります。陀の字の〓(コザトヘン)を虫偏にすれば蛇になります。是れを以て悟れば良いのであります。今度は阿彌陀様が改心するのであります。マッソンを拵えたのは、奥の院に阿彌陀様が祭ってあったのであります。
  今迄は、観音様より上にいて人々に拝ませて居たのでありますが、阿彌陀が下に降って観音様より下になれば、五六七の世となるのであります。此の様な例は何程でも沢山ありますが、善悪を判らない様にしていたのでありまして、南無阿彌陀仏を称へさえすれば、悪も救われると言うが、之が悪人を作る事が多くなるのであります。出来た悪を救うよりも、悪を最初から作らん様にするのが、本当の教であります。この様に根本が大変に違うのであります。
  救世軍が年の暮に鍋を出して、正月の餅を配る事をやり、又、不仕合せの者、罪人等を救うと言うが、其の根本に遡り、不幸な者が出来ん様にするのを考えないで救うと思っても根本から出ぬ様にしなければ、是れは根絶する事も出来ず、何時迄やっても際限のない事になるのであります。救うのも必要だが、この様な不幸な者の沢山出ぬ様にするのが一番良いのであります。社会事業は箆棒(ベラボウ)だ、一方で不幸な人を造り、それを救うのであります。それが出ぬ様にするのが本当なのだ。之が誤魔化しの世界なのであります。
  悪の出る根本は何処にあるか、これは、支配階級が正しい行をするのが根本であります。宗教家や政治家は、良いことをせねばなりません。上流が濁れば下流が濁るのが当り前であります。総て源にあるのであります。源の人間が本当の働きをすれば善いのであります。処が、今の上流は、それをやるのが嫌なのだ。妾を置いたり、芸者買いをやったり、女子に手をつけたりする、斯ういう事が止められんのであります。根本を良くするのが嫌なのであります。
  政治家も神様を祭り、政治を行う前に、先づ神を拝んで、然る後行えば良い政治が出来るからよいが、待合や料理屋でやらなければ、会議が出来ん、乱れているから本当の事が出来ません。自力更生、農村救済等と色々な事は言うが、農民が気の毒だから救わねばならんとすれば、先づ以て料理屋で食って居たのを三十銭位の弁当にするとか、先づ第一に、自分等が率先して是れを実行すればよいのであります。世の中の人も競って之を真似るのであります。凶作地の話を待合でやるのでは問題になりません。何千坪かの邸宅を構え、祖先の関ケ原の戦の功名で公爵になり上っている人達が、教化運動の総裁でやっているが、自分の行を改めずに、人に行わしても駄目であります。悪人が出来るのは当り前であります。支配階級の人が、自分達の行を見せてくれて、世の中の人も見習う事で、納得するのであります。
  国際聯盟の問題の時、満洲を日本が武力で取ったと言ったが、国際聯盟の人達は、自分の国では沢山の植民地を持っているのは何だ。皆武力で取ったのではないか。日本は満洲が日本の生命線であるから独立させたのだ。又、現在でも武力で圧(オサ)えつけているではないか。印度等でも少し騒動すれば、沢山な軍隊がどんどん虐殺する。日本で取れば文句をいう。実におかしいではないか。日本の満洲を取ったお手本は誰だと聞きたいのであります。悪人の出る根本は誰だ、やはり自分達の行動からではないか。之が誤魔化し世界の誤魔化し世界たる由縁であります。
                      ☆
  北○は盤古神王系にして、南○は大自在天系なり。南○より出たる出口王仁三郎は大自在天にして、今の働きは大六天の魔王なり。それで大悪魔にはあれども、岡田仁斎先生を産みたるは、大悪魔の悪業を償いて余りある大功あれば、今後に於て改心すれば、又救われて元の霊魂に復帰する事を得るなり。素盞嗚尊の霊魂なり。月は水なれば阿彌陀も水なり、阿彌陀仏を今に於て拝む者は、体中冷ゆるは当然なり。
  日は火なり、観音様は日の神様なれば、冷ゆる人が観音会に入会して、観音様を拝めば冷も去り暖くなるなり。
  月は阿彌陀仏にして大自在天なり。さればこそ六にして中界の魔王となるなり。大六天の魔王とは矢張り六なればなり。出口王仁三郎なり。又、猿田彦命が中界の魔王となると云ふ大本教のお筆先あり。これも此意味なり。猿田彦命は手力男命となる。
  昭和神聖会は此の働きなれば大六天の魔王の活動となるなり。則ち、出口王仁三郎の主催なればなり。釈迦は悪少し、則ち教祖様の意味となる。天若彦は七の霊魂なり。教祖様の夫なればなり。
  三千年の桃の実とは西王母の事にして、現界の歴史である。仏教では胎蔵界と言う。彌勒の出現の時まで五六七を胎蔵していたのである。西王母は聖王母とも書く、伊邪那美尊の事である。今迄の世界は、伊邪那美尊の御経綸である。伊邪那美尊は西の経綸である。西王母より生れて、いよいよ桃太郎となる。千手観音は桃太郎の事である。沢山の宝を取るのは、千手観音の手に沢山の宝を持っている。あれは今迄の世界の物は総て鬼ケ島の鬼が支配して居ったのを取返した事となるのであって、今迄のあらゆる権力を鬼が持っていたのである。今後鬼が改心する事になるのである。桃太郎に出られては迚(トテ)もかなわないといって降参するのである。
  今迄の支配権は(支配権といっても霊的である)鬼が持っていたのを、いよいよ奉還するのである。
  尉と姥とで世界の大掃除を致すことである。黄泉津比良坂(ヨモツヒラサカ)の戦は鬼と桃太郎の戦である。桃太郎は桃の実である。千手観音である。応神堂の千手観音のお顔は若いが、あれは桃太郎の顔である。
  黄泉津比良坂の戦は、一番初めは明治神宮の参道九鬼隆二子爵の家に行ったことである。青山隠田百一番地で、百一番は「桃のはじめ」と言う事、九鬼とは沢山の鬼の事である。其戦で勝って如意宝珠の玉を夫婦で持って来て呉れた。今でもどんどん第二、第三、第四と戦っているのである。麹町へ出たのは、鬼ケ島の真中へ出て来た事である。
  桃太郎は最勝妙如来である。必ず勝つのである。桃は三月三日に咲いて五月五日に実る。五月五日の鯉のぼりの事は非常なる意味がある。鯉は魚の観音である。真鯉の鱗は三十三枚である。
  常磐津や長唄等には神秘が沢山ある。これは神様が準備して居られたのである。観音宗とか観音教とかいう宗教の今迄出なかったのは、又神様が取っておかれたのである。
  今度の祝詞の中にある大千三千世界と書いてあるのも、今迄の三千大千世界となっていたのを逆にしたのであって、これは非常なる意味がある。大千のセンはスとなる、オスの意味にして男の事である。又、大のオオは王ともなる。三千はミスとなり、メスとなり、女の意味である。これは今迄女が上で男が下であった事になるのだ。嬶天下の意味にして今迄の逆の世の言葉である。いよいよ時節が来て大千三千世界となり、男が上になったのである。
  釈迦とはサカの意味にして逆である。神様へ榊を上げる事も逆の木を上げた事で、逆の世を表わしているのである。
  南無阿は間違いであり、南無妙も間違いで阿無南、妙無南とならねばならぬのである。要するに、今迄の仏教は間違いであるから、止めようと言う事になるのだ。南無阿とか、南無妙とか称える事は間違いの世を謳歌する事になるので、我々としては絶対にやめねばならぬ。南無と言う字は決して使用する事はいけない事になる、心すべきである。

私の信仰の経路

          私の信仰の経路  (昭和十年一月十一日御講話) 

  私の生れたのは、浅草橋場で浅草観音様の裏の方であって、明治前に私の曽祖父が武蔵屋喜左衛門といって、其の界隈での幅利きで橋場から五六丁離れた所の浅草町という所で質屋を営み、相当の財産家で義侠心に富み、今の町長位の資格であり、人を助けることが好きで鳴らしたものであった。此の浅草町に明治の初年迄営業を続けて居たのであります。何年頃か知りませんが、其の当時浅草の観音様の御本尊を質に預けたものがありましたが、流れて其の儘になったのであります。尤も、観音は宮戸川へ流れて来ていたのでありますから、流れるのが因縁かも知れませんが、私の父の乳母が、私の家に御本体があったといって居りましたが、父の義理の兄が失敗して御本体も人手に渡ったのかも知れませんが、今はそれはありませんそうです。私はその橋場で生れたのであります。日本の艮は東京で、東京の艮は浅草で、その又艮にあたる橋場で生れたのも何かの因縁で、私が十五位の年迄此処に居ったのであります。
  太陽は東から昇ると言われますが、東と言うより艮の方から昇りますから、色々に因縁は深い訳であります。浅草の観音様の御本体は、明治時代に無くなっていると言うことは事実らしいのであります。元は本当の御神体は橋場の私の家の十軒ばかり先の長勝寺に安置してありまして、御開帳中は浅草寺にお移しして居たのであります。私の家の菩提寺は三河島の観音寺という寺であるのも深い因縁のある事であります。私も子供時代にこの様に非常に観音様に縁があると思って居りました。今日に及んで充分訳が判った様に思います。
  私の幼時は平凡でありましたが、只有難いと思ったのは非常に貧乏であった事であると思って居ります。浅草の橋場の生れでありますから、江戸っ子であります。浅草は東京の東、東京は日本の東、日本は世界の極東であります。私の生れたのは浅草の観音様の裏で、観音様の東であります。
  当時私の両親は、古道具屋をやって居り、浅草の観音様の境内で夜店に出て居ったのであります。父が荷車を挽き、母は私をおぶって荷車の後押しをし、共稼ぎをして居りました。此の様な境遇の内に育てられた私は、幼時から物を大切にしました。今以って物を無駄にしないのは、心の内に染込んで居るからだと思います。
  小学校時代二年から三年を飛越えて、四年に上ったのを見ると他の人よりは優れて居たのだと思います。尚又、成績は優良の為、何時も一番で通したのであります。これは私は負ける事が嫌いであったからだと思って居りますが、人々より優れて居た事が解ります。此の為八年の小学校を七年で卒業したのであります。私は美術学校へ入学を志し、中学程度の予備校へ入り、美術家とならうとしましたが、病気の為に止めたのであります。この時代に絵筆の使い方を知ったのであります。十七八才から二十五才迄は、病気の為ブラブラとして居りましたが、其の間に色々な書物を読んだのであります。其の本は商人になる様に志し、盛んに読んだのであります。
  二十五才の時、小間物屋を始め、十年位で十五万円位儲けました。成功者として非常に評判になった。其の頃朝日ダイヤを発明して、十ケ国の専売特許が得られたのであります。アメリカへ盛んに出して儲けましたが、其の内に失敗して宗教生活へ入ったのであります。盛んな頃、資本金二百万円の株式会社と迄したが、大正九年のガラで散々の失敗をしたのでありますが、この失敗が信仰生活に入った動機となったのであります。
  私は普通の商人の様に、決して我利々々亡者ではなかったのであります。苦学生を養ったり、苦学生に学資を送って学校を卒業させてやったり、救世軍や何かにも寄附したり、慈悲善根を施し等しましたが、其の内十五万円位損をしました。前の家内の四人の子供が皆亡くなり、家内も亦病気中流産をして亡くなるという大不幸続きで、私は、これ程よい事をしているに拘らず、この様に失敗や不幸続きは解らんと、何か信仰に入らうと、いろいろ調べたが其の頃新聞で大本教の広告のあったのを見て引きつけられて、信者になる動機を得たのであります。
  昭和二年神憑りとなり、色々のお知らせを受けたのであります。何十万年前からの歴史及過去未来の色々の事を知らされたのであります。これから述べることは、この時にお知らせがあったのであります。
  大使命を知らされ、光明世界建設の事も、この時に知らされたが、最初私は是れを疑って居りましたが、其の後沢山奇蹟が続出したのであります。この状態が三月ばかり続きましたが、其の後半ケ年位後に、大本教へ行った時出口先生が神憑りで知らされた通りの事を言って、あなたは病気治しをすれば、何程でも治ると知らされたので、家に帰って病気治しをやって見ると良く癒るので、いよいよ神様から大使命のあった事を悟って、三年かかって商業を廃め、神様専門になった訳であります。
                      ☆
  近頃の流行語にインチキといふ事が沢山あります。インチキ宗教とか、インチキ野郎とか、あれはインチキだとかいふやうに、馬鹿に流行ってゐる。で、インチキといふ言葉は怪しげなものに対し、ピンと来る一番適当な言葉です。一番よく使はれてゐるのは宗教に使はれるインチキ宗とか邪教とか、新聞雑誌等によく出てをります。私はその度に思ふ。遠慮なくいへば、今日如何なる宗教もインチキでないものはない、全部がインチキであると断定出来るんであります。インチキといふ事は、他の言葉でいふと、インチキの言葉が一番よく表はしてゐるんで他の言葉にいゝのがない。古い言葉で言へば誤魔化しとか、贋物とか、まやかしものとかいふ意味で、要するに本当のものではないといふ意味であります。そういふ意味からいふと、宗教以外に沢山あり、本当らしい顔をして本当でないものが沢山ある。
  新しい宗教を多くインチキインチキといひますが、或はそうかもしれぬが、然し観音会丈は絶対にその名称は当てはまらぬ。如何なる宗教でも何でも、手前味噌は言ふのですがこういふ言訳は効目はないが、ここにお出での方は判ってるが、世間では又味噌を言ってるやうに言ふ。
  先刻米沢さんが言ったやうに、観音運動は当然の事を行ふといふのが観音運動の根本で、当然の事を行ひ又行はなければならぬといふ事は、如何に世の中の人が当然の事を行はなくなってるかといふ事になる。兎に角脱線が多過ぎるといふ訳になる。此事をしっかり判れば観音行は一番よく判るんであります。よく判るやうにいろいろお話してゐるんで、今迄の世の中の事とは大分違ふ。ともすれば今迄の癖が出て観音行にならなくなるといふのは、その前に観音運動の根本としては、人間個人をよりよくする、要するに人間らしい人間を造るといふ訳で、実際今日世の中を見渡して、人間らしい人間は実に少なくなった。見付けるに骨が折れる。それでは一般に沢山の人間はありますが、誰かの歌に“人の皮着た獣なりけり”といふやうな歌があったが、獣のやうではないが、人間よりは以下になってる心や行になってゐる。
  神が人間を造られた目的は、今日の人間のやうなものでなかった。然し之も必要があって今迄そういふ風になってゐた。で、今度いよいよ人間らしい人間を造るといふ事になるんであります。それは何かといふと、人間として行ふべき事考ふべき事はちゃんと決ってゐる。それ以外に脱出しやうとする為に、いろいろ面倒が起る。病貧争の根本はそこにあるのでありますから、今日の人間は殆んど病人で、どんな方をみても本当に無病息災といふ人はない。殆んどが病人で、身体はよくみえても心は本当でない。心と身体とは使ふもの。お腹に虫が涌くのは何の為かと聞く人があって、それはお腹が虫の涌く位腐ってゐるからだと答へたのです。之は本当で、人間の身体には虫の涌くべきものではない。虫といっても蛆虫ですが、肚に蛆が湧く程に肚が汚い、肚が汚いといふことは心が汚い、心が綺麗ならば肚に虫の湧く道理はない。では子供はどういふ訳かといふと、子供は親の分身であり枝ですから、枝がわるくなるのは、この根がわるいに決ってゐる。それ位に人間がわるくなってゐる。ですからいつもいふ通り、病気治しは血を浄める事、浄化する事ですから、私はおワイ屋と埃とりと兼帯でしてるんで、人間の身体に湧いた塵やおワイをとるのと同じで、之は本当の事で、それ程に汚くなってゐる。それ程心が汚れてる。その肉体を綺麗にし、心を綺麗にし立派なものにする。それが観音運動で、肉体を綺麗にするのは、健康にする事で、心の間違ってゐるのは、心が病体なんで、心と肉体即ち霊体を健康にする事は誰もしなかった。
  心を治すのに宗教があり、肉体を治すのにお医者があった。宗教も三千年も前から、世界中にはいろんな偉い人が出て、生命を犠牲にする位にして人間の心を治さうとし、医者も何千年前からやってゐる。こうして一生懸命宗教家も医者もやりながら、人間はさっぱり精神肉体共に健康にならない。反って反対に病体に余計なりつつある。之は何処かに欠陥がなくてはならぬ。斯んなにひどくなるとは可笑しい。こんなにひどく不健康な人間が出来たといふのは、霊体共に治す所の宗教や医学が皆インチキだったからで、もし本当のものが出来てゐたら、もっと結果がよくならなくてはならぬ筈であります。然し、まやかし物でもまるっきりまやかしものなら存在の価値はなくなる。いい点も沢山ある。もし今日迄、宗教や医学がなかったなら、もっと人間の健康はひどかったかもしれぬ。或はもっとひどくならずにすんだか、それは判らぬ。それは試してみなければ判らぬ。
  宗教はそうではないが、医学の方は、もしなかったならばもっと健康は害はれてゐなかったと思ふ。観音運動は宗教や医学を本当のものにするんで観音様の思召もそこにあるんであります。本当の宗教と医術を拵えて、人間を本当に健康にすれば、それでよいのであります。
  今夜の夕刊に大本教の事が出てゐたといふ事ですが、国体変革の証拠あり、建物全部を破壊して根絶する方針とか出てゐたんですが、之等も実に当然の事をしなかった為で、何といっても宗教は人の心をよくするもので、それ以外には宗教としての使命はない。然るに何ぞや、政治運動だの、国防運動だの、社会運動をするから、全然宗教の埓外に出ているから、当然大鉄槌を食ふに決ってゐる。当然の事とは、宗教は宗教としての使命がある。商人は商人として、軍人は軍人としての各々するべき事、すべからざる事と判然と自ら決ってゐる。之以外の事をやれば滅びるに決ってゐる。今日の宗教は、社会事業をやってゐますが、之が間違ってゐる。そういふ社会事業の背景となる事はいいが、それを直接するといふ事は全然間違ってゐる。大きな事は、小さい事で一人一人個人個人よい事をすればよい。良い個人が沢山寄れば政治等も完全になる。敢て政治等に嘴を入れなくていい。政治は政治家がやる。
  宗教は霊肉を完全にする。それ丈やればいい。所が人間を完全にする丈の力のある宗教はない。精神が健全なれば、肉体は健全になるに決ってゐる。行が当然な行をし、間違った事をしなければ健全になるに決ってゐる。
  昔から「健康なる精神は、健康なる肉体に宿る」といひますが、之はちっと疑問がある。随分大きな仕事をした人でも病体の人がある。有名な正岡子規等肺の初期になって、反って大作を残した。石川啄木でも病院中で作った歌は実にいい歌がある。ですから健康な肉体に健全な精神が宿るといへば、角力取りなど偉大な立派な精神を持ちそうなものです。然し、健全な精神なら必ず健全な肉体を持つのは真ですから、根本は健全な精神で、健全な精神を作る事が根本で、凡ゆる宗教をみて、病人のない宗教があれば、それは本当の宗教の使命を遂行してるものであります。然し乍ら、如何なる宗教の信者も病人のない宗教はない。信者でも信者でない人も、健康状態は同じ様なものです。それは力のない事を証明してをります。ですから観音運動は宗教改革と医学の革命で、大体此二つで世の中はよくなる。政治や経済などは、それは専門家に任せばそれでよい。宗教改革といっても、ルーテルのやうなものでない、もっと大きい。
  今日はすべて世界的になってるから、世界的のものでなくてはならぬ。各宗教の間違った点は、阿呆文学で指摘する。こういふ事を真面目にいふと、甚だお気の毒ですから、反って反感を持つといかんから、滑稽にする。最初に大本教の一番の欠点をやり、次に天理教をし、最近は屁の玉宗、今度は南無諦め宗といふのを作りました。今読んでもらひます。
      「南無諦め宗」(御発表)
  此次は、外の方面へ向けて、狂人製造宗といふのをやるつもりです。
  観音運動の目的は只今お話した通りでありますが、観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然の事をする人間を造る事は、非常に簡単であってなかなか難しい。何故かといへば、今迄のものは、人間が当然な事をしなかった為に、どっちかへ脱線する癖がついてゐる。その癖を直すのが観音運動にもなる。観音運動は御承知の通り、観音様はどちらへも片よらぬお働きをなさる。男でもなく女でもなく、日でも月でも、又火と水のお働きをなさる。火と水両方合したもの、丁度お湯で、人間を湯へ入らせるやうに、いい気持にさせる。之は先だって言った事ですが、丁度気候でいへば春と秋で、寒からず暑からずといふ具合です。
  之が人間の行になり、心になればよろしい。どういふ行かといふと、どっちへも片よらぬ、極端にならぬ行で、今迄の宗教とは、その点が反対な程違ふ。今迄の宗教は、非常に熱心になる程極端になる。狂人じみてくる。狂信になる。そういふ信仰になると、外でみるとおかしい。それですから親戚知人からは反対され、結局信者丈の附合になって、それで神様の思召に合ってると思ふ。所が観音行は信仰が進む程、信仰してるのかどうだか判らなくなる。此点が判らぬ事で、要するに味噌くさくなくなる訳であります。例えてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいふものはないのであります。陽気が変るやうに、天が晴れたり曇ったりするやふに、水の流るる如く少しも拘泥してはいかぬ。
      「天地の諸の動きの狂ひなきは観音行の鏡なりけり」
  森羅万象、天地一切、凡ゆるものの動きが観音行になってゐる。之を人間一切の行にする。そうすれば永遠に栄える。それで人間が決めるところに天地自然の運行に反するから止る、行詰る。ですから観音会はどこまでも栄える。天地一切の生成化育と同じ事で、個人がそうなれば必ず栄えて行くに定ってゐる。その家はどんどんよくなる。天地自然の運行と外れる事のないやう始終心掛くれば、だんだんそうなる。そうなるやうに人間は造られてゐる。そうならないのは間違ってゐる。人と話しするにも、丁度その時いゝ気持で聞ける話があり、それを話せば喜んで聞く。先方が未だその気にならないでをれば、時期が来ぬのですから話さない。四人五人と人がゐても、その人達や、その場の空気によって言ふべき事や、態度とか座り方など丁度いい所がある。そういふ事が判り、自然にそういふやうに行が出来れば、魂の磨けた人で、根本は飽迄平和で行かなければならぬ。
  観音様は天国ですから、争がないから、地獄的なことは絶対にいけない。争などの場合は観音行とは全然違ふ。ですから水浴びたりなどの荒行は観音行ではない。水浴びるのは、魚か亀の子か蛙のする事であります。日光浴などありますが、あれは亀の子のやる事で、人間は天日に背を干すべきものではないと私は言ってゐる。
  養生法でも食物でも、東京人はどういふ物を食ひ、どういふ風に働くかちゃんと誰も決めない法則がある。規則書などにしても駄目なんで、未だ未だ複雑な世界に、昨日と今日と同じ行ではいけない。
  自然天然に観音様の守護をうければ、丁度いい行になる。で、非難もどうする事も出来ぬ。反って世の中が狂えば非難されるかしらぬが良いものはどこまでもいい。床の間におくべきものは床の間に置く。
  当然の事をするのは訳はない事で、又或は今日の世の中の人には難しいかもしれませんが、どうしてもそうしなければならない事になって来てゐる。今ははっきり判りませんが、いづれは今迄の考えを持ってゐると、生存する事の出来ない程の時期が来てゐる。そうならなければ世界は本当にならない。物質文化の方は世界は恒久の平和になってゐるが、人間の精神の方は後れてゐる。之を神様は急がれてゐるんであります。
個人をみて私は、その方の口の利き方挙動によってもよく判る事がある。その場、その時に合ってる事をいふ人は、よほど研(ミガ)けた人で、その場に外れてる事をいふ人がある。観音行に外れてゐて浄ってゐない。
  斯ういふ風に、士農工商の凡ゆる階級、親子兄弟から社長、技師、労働的の仕事をする人達等、各々自己の階級職業等により、丁度合ってる社会が出来る。そういふ世の中が出来れば、悪魔の目的は大変齟齬(ソゴ)するんで、之をさせまいとする。その最も強力なのが共産主義で、上のものを下へ、下のものを上へ行かせ、社会を混乱させ破壊に導かふとする。之が彼等の目的で、今日の学校教育なども破壊し狂はせる事を教へる。学校へ行った子は、親に背くなどは、その思想にやられる。こういふ事に対して観音運動は、狂はせないやうにする。宗教そのものも狂はそうとしてゐる。
  大本信者は喧嘩好きで、到る所で喧嘩する。そのくせ一方では人類愛善運動などしてゐる。之は自分達が神の選民と思はせる。そして社会の一般人よりは一等上だといふのですから、社会の人間は眼下に見下す。平民をみるような態度で、社会から特殊扱ひにされると偉がる。又そういふ人は団体中でも、信仰が進んでる等といはれて威張る。第一、教祖は三千世界の大狂人、教主は大化物と、両方がそうですから、大いに狂人と化物にならなければならぬといふので、殆んど狂人じみないと信仰が進んだといへない。そして当り前な事をすると、あれは未だ駄目だといふのです。それで、その団体が気違ひじみる。大本のみでなく他の各団体にもこういふ団体は沢山あります。之は悪魔が各宗教を通じて物を狂はせやうとするので、その働きこそ実に恐るべきものであって、そういふやうな宗教と、後は全然無力な宗教との二種ですが、無力宗教の方は売薬の如うなもので看過してもいいですから、今迄の宗教は、真理だと有難がった中にも、人心を狂はせやうとする働きが沢山あります。親鸞が言った「善人尚往生を遂ぐ、况んや悪人に於てをや」といふやうに、悪を栄えさせるやうな事、あゝいふ様な事が各宗教に沢山あって、生長の家でいふ「物体は心の影なり」といふのは、狂はせやうとする大きなものであります。之も物を狂はせんとする一つの錯覚運動の極端な物質否定で、あの奥には或悪魔がゐる。ですからお気の毒だが滅びるんであります。
  もし皆の人があゝいふ思想になれば、折角発達した世界がどうなるか知れない。当然の事、当然の物が本当のものなんであります。森羅万象一切に狂ふものはない。草木の育つのも、太陽が出るのも、ちっとも狂はぬ。天地自然の運行は狂はぬ。
  悪魔は破壊しやうとして、その為に人間を狂はさうとするのです。神様は之を救はれる訳であります。



地上天国


 地上天国
 地上天国とはバイブルから出た言葉であり、仏教ではミロクの世といひ、西洋ではユートピヤなどといふが、勿論意味は同一であって、つまり理想世界である。之が曩(さき)にかいた如く神の目的であるから、現在迄の歴史は其(その)世界を造る過程であったので、幾変遷を経て漸(ようや)く天国の一歩手前に来たのが現在である。此(この)世界を一口にいえば、病貧争絶無の世界である。処が此(この)三大災厄の中の王座を占めてゐるのが病気であるから、病気さえ解決すれば、貧乏も争ひも自ら解消するのは、言を俟(ま)たない処である。
 如上(じょじょう)の意味に於て、私は病気に就(つい)て根本原因を、凡(あら)ゆる面から徹底的に解剖し明かにするのである。而(しか)も之は医学と異って、人智によって生れた学問上の研究理論ではなく、神の啓示を土台とし、実験によって得たる真理であるから、毫末(ごうまつ)も誤りはないのである。そうして実験とは今日迄何万に上る私の弟子が、毎日何十万に上る患者の治療に当ってをり、其(その)治癒率の素晴しい事は、医学の一に対し百といっても、決して過言ではない程である。
 右の如く驚くべき治病の実績が、此(この)地球上に出現したに拘(かか)はらず、全人類は治る力のない医学を無上のものと誤信し、病苦に悩み、長く生きられる生命を中途に挫折して了(しま)ふ其(その)無智悲惨なる現状は、到底黙視出来ないのである。此(この)様な末期的惨状を神として、そう長く放任して置けないのは当然である。といふ理由と来(きた)るべき理想世界の住民としての健康人を作らんが為との二つの理由によって、茲(ここ)に医学の迷盲を発表するのである。

救ひ主と贖罪(しょくざい)主


 救ひ主と贖罪(しょくざい)主
 私は之迄悪に就(つい)ての根本理論として、悪が必要であった事、悪によって今日の如き文化の進歩発展を見た事をかいて来たが、茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならない。それは有史以来今日迄幾多の宗教が生れ、其(その)説く処は例外なく善を勧め、悪を極力排斥したのであった。勿論之は悪其(その)ものを除くのが宗教の建前であるから勿論当然であるが、それに就(つい)て私はよく斯(こ)ういふ質問を受けたものである。〝一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍(なが)ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか〟といふのである。成程此(この)質問は尤(もっと)も千万(せんばん)で一言もないが、実をいふと私にしても同様の考へ方であるから、其(その)都度私は斯(こ)う答へる。〝成程それには違ひないが、元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから、何(いず)れ神様はそれに就(つい)ての、根本的理由をお示しになるに違いないから、それ迄待つより仕方がない〟と曰(い)ったものである。
 処が愈々(いよいよ)其(その)時が来たので神は其(その)事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪へないのである。そうして右と同様の疑問を有(も)ってゐる人も多数あるであらうから、之を読んだなら、暗夜に燈火を得た如く豁然(かつぜん)と眼を開くのは勿論であらう。では何故今迄の宗教開祖の悉(ことごと)くが悪を非難したかといふと、曩(さき)にも詳しくかいた如く、或(ある)期間悪が必要であったから其(その)深い意味を主神は知らさなかったのである。従って仮令(たとえ)正神と雖(いえど)も知り得る由はなかったので、正神は何処(どこ)迄も正義のみによって天国世界を作らんとするに反し、邪神は何処(どこ)迄も目的の為手段を撰ばず式で、悪によって野望を遂げんとしたのである。
 処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。それといふのは今迄の各宗開祖は力が足りなかった。其(その)最もいい例としては彼(か)のキリストである。キリスト自身は贖罪(しょくざい)主といったが、救ひ主とは曰(い)はなかった。贖罪(しょくざい)主とは読んで字の如く、罪の贖(あがな)ひ主である。つまり万人(ばんにん)の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦(ゆる)しを乞ふ役目である。早くいえば万人(ばんにん)の代理者であり、赦(ゆる)される側の神で、赦(ゆる)す方の神ではなかった。其(その)為罪の代償として十字架に懸(かか)ったのである。
 此(この)理は仏教に就(つい)てもいえる。彼(か)の釈尊が最初は仏教によって、極楽世界を造るべく数多くの経文を説き、専心教へを垂(た)れたのであるが、どうも予期の如く進展しなかった処へ仏典にもある通り〝吾七十二歳にして見真実を得た〟と曰(い)はれた通り、此(この)時自己の因縁と使命を本当に知ったのである。そこで之迄の誤りを覚り、極楽世界出現は遥かに先の未来である事が分ったので、之迄説いた処の経説には誤謬(ごびゅう)の点少なからずあり、之から説くものこそ真実でありと告白し、説いたのが彼(か)の法滅尽経であり、彌勒出現成就経であり、法華経二十八品(ぼん)であったのである。一言にしていえば釈尊は仏滅即ち仏法は必ず滅するといふ事を知り、其(その)後に至って現世的極楽世界である彌勒の世が来ると曰(い)はれたのは有名な話である。只(ただ)茲(ここ)で時期に就(つい)て注意したい事は、釈尊は五十六億七千万年後ミロクの世が来ると曰(い)はれた。併(しか)しよく考えてみると、いくら釈尊でも其(その)様な途轍(とてつ)もない先の事を予言する筈(はず)はない。第一そんな先の事を予言したとて、何の意味もないではないか。何故ならばそんな遠い時代、地球も人類もどうなってゐるか、到底想像もつかないからである。之は神示によれば五六七の数字を現はす為で、此(この)数字こそ深い意味が秘めてあった。即ち五は日(火)、六は月(水)、七は地(土)であり、之が正しい順序であって、今日迄は六七五の不正な順序であった。之は後に詳しくかく事として、兎(と)に角(かく)キリスト、釈尊の二大聖者と雖(いえど)も、真理は説けなかったのである。何よりも経文(きょうもん)やバイブルにしても明確を欠き、何人と雖(いえど)も到底真理の把握は不可能であったにみて明かである。勿論時期の関係上止むを得なかったのである。
 処が茲(ここ)に主神は深奥なる真理を愈々(いよいよ)開示される事となった。此(この)著に説く処明快にして些(いささ)かの疑点なく、何人も容易に真理を摑み得るのである。そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘迄掌握し、後一厘といふ間際(まぎわ)に来て、意外にも茲(ここ)に一厘の力が現はれ、邪神の謀略を一挙に覆(くつが)へすのである。つまり悪主善従であった世界が、善主悪従となるのである。そうして之を具体的にいえば斯(こ)うである。即ち九分九厘の悪とは現代医学であって、之も曩(さき)にかいた通り必要悪であるから、今迄はそれでよかったのである。然(しか)し其(その)結果として人間の最大貴重な生命を完全に握って了(しま)った。若(も)し医学が誤ってゐるとすれば、生命の危険は言語に絶するといってもいいであらう。之程世界人類から固く信じられてゐる医学を是正するのであるから、容易な業でない事は言う迄もない。

健康と寿命


 健康と寿命
 私は之から医学を全面的に批判解剖してみるが、其(その)前に健康と寿命に就(つい)てもかかねばならないが、現代医学が真の医術であるとすれば、病人は年々減ってゆかなければならない筈(はず)であり、それと共に寿命も漸次(ぜんじ)延びてゆかなければならない道理であるばかりか、そうなる迄に数百年で充分であるのは勿論、現在最も難問題とされてゐる結核も伝染病も全滅するし、病気の苦しみなどは昔の夢物語になって了(しま)ふであらう。処が事実は全然其(その)反対ではないか。としたら真の医学でない事は余りにも明かである。
 そうして次の人間の寿命であるが、之も造物主が人間を造った時は、寿命もハッキリ決めた事である。尤(もっと)も之に就(つい)ても私は神様から示されてゐるが、最低百二十歳から、最高は六百歳は可能といふ事である。従って人間が間違った事さへしなければ、百二十歳は普通であるから、そうなったとしたら実に希望多い人生ではないか。而(しか)も只(ただ)長命だけではなく一生の間潑剌(はつらつ)たる健康で、病気の不安などは消滅するのであるから、全く此(この)世の天国である。では右の如き間違った点は何かといふと之こそ驚くべし医学の為である。といったら何人も愕然(がくぜん)とするであらうが、此(この)百二十歳説に就(つい)て、最も分り易い譬(たと)えでかいてみるが、先(ま)づ人間の寿命を春夏秋冬の四季に分けてみるのである。すると春は一、二、三月の三月(みつき)として、一月の元旦が誕生日となり、一月は幼児から児童までで、二月が少年期で、梅の咲く頃が青年期であって、今や桜が咲かんとする頃が青年期で、それが済んで愈々(いよいよ)一人前となり、社会へ乗出す。之が花咲く頃であらう。次で四月桜の真盛りとなって、人々の浮き浮きする頃が、四十歳頃の活動の最盛期であらう。よく四十二の厄年といふのは花に嵐の譬(たと)え通り、花が散るのである。次で五、六、七月は新緑から青葉の繁る夏の季節で、木の実はたわわに枝に実るが、それを過ぎて気候も下り坂になって、愈々(いよいよ)稔りの秋となり、之から収穫が始まる。人間もそれと同じやうに、此(この)頃は長い間の労苦が実を結び、仕事も一段落となり、社会的信用も出来ると共に、子や孫なども増へ、人生最後の楽しい時期となる。そうして種々の経験や信用もあり、それを生かして世の為人の為出来るだけ徳を施す事になるのである。それが十年として九十歳になるから、それ以後は冬の季節となるから、静かに風月などを楽しみ、余生を送ればいいのである。然(しか)し人によっては活動を好み、死ぬ迄働くのも之亦(また)結構である。
 以上によってみても、四季と寿齢とはよく合ってゐる。此(この)見方が最も百二十歳説の裏付けとして好適であらう。此(この)理によって医療が無くなるとすれば、右の如く百二十歳迄生きるのは、何等不思議はないのである。処が単に医療といっても種々の方法があるが、二十世紀以前迄は殆(ほと)んど薬剤が主となってゐたので、長い間に薬剤で沢山の病気を作って来たのである。何しろ薬で病気を作り、薬で治そうとするのだから、病気の増へるのも当然であると共に、寿齢の低下も同様である。此(この)何よりの証左として、医学が進歩するとすれば病気の種類が少なくなりそうなものだが、反対に増へるのは、薬の種類が増へるのと正比例してゐるのである。今一つ人々の気の付かない重要事がある。それは医学で病気が治るものなら、医師も其(その)家族の健康も、一般人より優良でなければならない筈(はず)であるのに、事実は寧(むし)ろ一般人より低下してゐる。何よりも種々の博士中医学博士が一番短命だそうだし、又医師の家族の弱い事と、結核の多い事も世間衆知の通りである。そうして現在の死亡の原因は突発事故を除いて悉(ことごと)くは病気である。而(しか)も病死の場合の苦しみは大変なもので、之は今更言う必要もないが、よく余り苦しいので、一思ひに殺して呉(く)れなどの悲鳴の話をよく聞くが、では此(この)様な苦しみは何が為かといふと、全く寿命が来ない内死ぬからで、中途から無理に枝を折るようなものであるからで、恰度(ちょうど)木の葉が枯れて落ち、青草が枯れて萎(しお)れる。稲が稔って穫入(とりい)れるのが自然であるのに青い内に葉をむしり、青い草を引抜き、稲の稔らないのに刈込むと同様で、不自然極まるからである。というやうにどうしても自然死でなくてはならない。然(しか)し近代人は弱くなってゐるから、自然死といっても九十歳から百歳位が止まりであらう。
 以上説いた如く、神は人間に百二十歳以上の寿命を与へ、病気の苦しみなどはなく、無病息災で活動するやうに作ってあるのを、愚かなる人間はそれを間違へ、反(かえ)って病苦と短命を作ったのであるから、其(その)無智なる、哀れと言っても云(い)い足りない位である。

悪の発生と病


 悪の発生と病
 前項の如く悪の九分九厘に対して、善の一厘が現はれ、絶対神力を揮(ふる)って既成文化を是正すると共に、新文化を打ち樹(た)てる。早くいえば掌(てのひら)を反(か)えすのである。之が今後に於ける神の経綸の骨子であって、其(その)破天荒的企図は想像に絶するといってよかろう。之に就(つい)ては彼(か)の旧約聖書創生記中にある禁断の木の実の寓話(ぐうわ)である。勿論之は比喩(ひゆ)であって、エデンの園にゐたアダムとイブの物語は、実に深遠なる神の謎が秘められてゐる。それを追々説いてゆくが、之を読むに就(つい)ては全然白紙にならなければ、到底分りやうがないのである。言う迄もなく木の実を食ふ事によって悪の発生である。といふのは木の実とは薬の事であって、薬によって病気が作られ、病気によって悪が発生する。処が人類は紀元以前から、病気を治す目的として使ひ始めたのが彼(か)の薬剤であって、禁断の木の実とは、何ぞ知らん此(この)薬剤を曰(い)ったものである。といふ訳を知ったなら何人も愕然(がくぜん)として驚かない者はあるまい。ではそのやうな到底想像もつかない程の理由は何かといふと、之を説くとしたら理論と実際から徹底的に説かねばならないから、充分活眼を開いて見られん事である。
 茲(ここ)で曩(さき)に説いた如く、人間は霊と体とから成立ってをり、霊が主で体が従であるといふ原則も已(すで)に判ったであらうが、そのやうに悪の発生原は霊に発生した曇りであり、此(この)曇りに元から憑依(ひょうい)してゐた動物霊と、後から憑依(ひょうい)した動物霊と相俟(あいま)って、人間は動物的行為をさせられる。それが悪の行為である。早く言えば霊の曇り即悪である以上、悪を撲滅するには霊の曇りの解消である事は言う迄もない。処が曇りの因(もと)こそ薬剤であるから茲(ここ)に大きな問題がある。勿論霊の曇りは濁血の移写で、濁血は薬剤が造るのであるから、人間薬剤さへ用ひなくなれば悪は発生しないのである。斯(こ)う判ってくると禁断の木の実、即ち薬剤こそ悪発生の根本である事が分るであらう。
 茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならないが、之も曩(さき)に説いた如く文化の進歩促進の為の悪を作った薬は、他にも大きな役目をして来た事である。といふのは血液の濁(にご)りを排除すべき自然浄化作用である。勿論曇りが溜ると健康に影響し、人間本来の活動に支障を及ぼすからである。処が人智未発達の為、右の浄化作用による苦痛をマイナスに解して了(しま)ひ病気の苦痛を免(まぬが)れやうとし、薬を用ひはじめたのである。といふのは浄化作用停止には身体を弱らせる事であって、弱れば浄化作用も弱るから、それだけ苦痛は緩和される。それを病気が治る作用と錯覚したのである。といふ訳で抑々(そもそも)此(この)誤りこそ、今日の如き苦悩に満ちた地獄世界を作った根本原因である。
 右によってみても、薬といふものは其(その)毒によって単に痛苦を軽減するだけのもので、治す力は聊(いささ)かもない処か、其(その)毒が病気の原因となるのであるから、其(その)無智なる言うべき言葉はないのである。処が驚くべし此(この)病気に対する盲目は、実は深い神の意図があったのである。それを之から詳しくかいてみるが、先(ま)づ文化を発展させる上には二つの方法があった。其(その)一は曩(さき)に説いた如く悪を作って善と闘はす事と、今一つは人間の健康を弱らす事である。前者は已(すで)に説いたから省くとして、後者に就(つい)て説明してみれば、先(ま)づ原始時代からの人間の歴史をみれば分る如く、最初はありのままの自然生活であって、衣食住に対しても殆(ほと)んど獣と同様で、健康も体力もそうであったから常に山野を馳駆し、猛獣毒蛇やあらゆる動物と闘ったのは勿論で、之がその時代に於ける人間生活の全部といってもいいのである。そのように獣的暴力的であった行動は漸次(ぜんじ)其(その)必要がなくなるに従ひ、今度は人間と人間との闘争が始まったと共に、漸次(ぜんじ)激しくなったのであるが、それらによって人智は大いに発達すると共に、長い年代を経て遂に文化を作り出すまでになったのである。このやうな訳で若(も)し最初から闘争がなく平穏無事な生活としたら、人類は原始時代のままか幾分進歩した程度で、智識の発達は少なく、相変らず未開人的生活に甘んじてゐたであらう事は想像されるのである。
 処が前記の如く禁断の木の実を食った事によって病が作られ悪が作られたのである。処が今日迄全然それに気が付かない為、今日の如く根強い薬剤迷信に陥ったのであるから、最も大きな過誤を続けて来たのである。而(しか)も一面原始人的健康であった人間は、前記の如く動物を征服し、生活の安全を得るに従ひ体力も弱ったと共に、智識は進んだので茲(ここ)に平坦な道を作り、馬や牛に車を牽(ひ)かせて歩行せずとも移動出来るやうになったのである。右は日本であるが、外国に於ては石炭を焚(た)き、レールの上を走る汽車を考え出し、一層進んで現在の如き自動車、飛行機の如き素晴しい便利な交通機関を作り出すと共に、他面電気ラヂオ等の機械を作る事になったのである。尚(なお)又人間の不幸をより減らすべく社会の組織機構は固(もと)より、政治、経済、教育、道徳、芸術等、凡(あら)ゆる文化面に亘(わた)って学問を進歩させ巧妙な機関施設等を作り、それが進歩発達して、現在の如き文明社会を作ったのであるから、帰(き)する処来(きた)るべき地上天国樹立の為の準備に外(ほか)ならなかったのである。
 以上の如く医学の根本は、人間の悪を作り健康を弱らす目的にあるので、予期の如く現在の如き世界が出来たのである。処が之以上進むとしたら、逆に人類破滅の危険に迄晒(さら)されるので、最早(もはや)之以上の進歩は不可とし、茲(ここ)に神は文明の大転換を行はんが為、私に対し真理を開示されたのであるから、之によって悪を或(ある)程度制約し、善主悪従の文明世界樹立の時となったのである。

悪と守護霊


 悪と守護霊
 前項の如く、現在迄必要であった悪が、不必要になったとしても、そう容易(たやす)く追放される訳にはゆかないが、それに就(つい)ての神の経綸は寔(まこと)に幽玄微妙なるものがある。之は追々説いてゆくが、茲(ここ)で前以(もっ)て知らねばならない事は、抑々(そもそも)宇宙の構成である。言う迄もなく宇宙の中心には太陽、月球、地球の三塊が浮在してゐる。そこで此(この)三塊の元素を説明してみると、太陽は火素、月球は水素、地球は窒素といふやうになってをり、此(この)三元素は勿論各々(おのおの)の特質を有(も)ち、夫々(それぞれ)の本能を発揮してゐるが、右の中(うち)の火素、水素の二精気が密合して大気となり、地球を囲繞(いにょう)しつつ、一切万有の生成化育を営んでゐるのである。
 そうして地球上のあり方であるが、之は陰と陽に別けられてゐる。即ち陽は火の精、陰は水の精であって、火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れてをり、此(この)経緯(たてよこ)が綾状となって運動してゐる。此(この)状態こそ想像もつかない程の超微粒線の交錯であって地上或(ある)程度の高さに迄達してをり、之が空気の層であり、大気でもある。右の如く陽と陰との本質が具体化して、火水、熱冷、昼夜、明暗、霊体、男女等々に表はれてゐるのである。又之を善悪に分ければ陽は霊で善であり、陰は体で悪である。此(この)意味に於て善も悪も対照的のものであって、之が大自然の基本的様相である。
 此(この)理は人間を見ても分る如く、人体は見ゆる肉体と、見へざる霊の二元素から成立ってをり、体と霊とは密接不離の関係にあって、人間が生命を保持してゐるのも此(この)両者の結合から生れた生命力によるのである。処が茲(ここ)に一つの法則がある。それは霊が主で体が従であって、之は事実がよく示してゐる。即ち人間霊の中心である心に意欲が起るや、体に命令し行為に移るのであるから、霊こそ人間の本体であり、支配者であるのは明かである。そこで霊は何が故(ゆえ)に悪心を起すかといふと、之が最も重要なる焦点であるから詳しくかいてみるが、それにはどうしても宗教的に説かねばならないから、其(その)つもりで読まれたい。といふのは善悪は心の問題であるからである。
 偖(さ)て愈々(いよいよ)本論に移るが、右の如く人間は霊と体との両者で成立ってゐる以上、肉体のみを対象として出来た科学では、如何(いか)に進歩したといっても畢竟(ひっきょう)一方的跛行(はこう)的であってみれば、真の科学は生れる筈(はず)はないのは分り切った話である。之に反し吾々の方は霊体両者の関係を基本として成立ったものである以上、之こそ真の科学でなくて何であらう。
 以上の如く善悪なるものは心即ち霊が元であり、而(しか)も霊主体従の法則を真理として、之から解き進める説を充分玩味(がんみ)するに於ては、根本から分る筈(はず)である。処で先(ま)づ人間といふものの発生であるが、言う迄もなく姙娠である。之を唯物的にいへば男性の精虫一個が、女性の卵巣に飛込んで胚胎(はいたい)する。之を霊的に言へば神の分霊が一個の魂となって宿るのである。そうして月満ちてオギャーと生れるや右の魂以外別に二つの魂が接近し、茲(ここ)に三つの魂の関係が結ばれる。右の二つの魂とは一は副守護霊といって動物霊であり、多くは二、三才の頃に憑依(ひょうい)する。今一つは正守護霊といって直接憑依(ひょうい)はしないが、絶へず身辺に着き添ひ守護の役をする。勿論右の二霊共一生を通じて離れる事はないから、言はば人間は三者共同体といってもいい。其(その)様な訳で第一に宿った魂こそ本守護霊と言ひ、神性そのものであり、之こそ良心でもある。昔から人の性は善なりといふのは之を指すのである。第二の副守護霊とは右と反対で悪そのものであるから、常に本守護霊の善と闘ってゐるのは誰も自分の肚の中を思へば分る筈(はず)である。第三の正守護霊とは祖霊中から選抜されたものであって、不断に其(その)人の身辺に附添ひ、守護の役目をしてゐる。例へば災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、凡(すべ)て其(その)人を不幸に導く原因を防止する。よく虫が知らせる、夢知らせ、邪魔が入る、食違ひ、間(ま)が悪いなどといふのがそれである。又何かの事情で汽車に乗遅れた為、危難を免(まぬが)れる事などもそれであり、悪に接近しやうとすると故障が起き、不可能になったりするのもそれである。そうして本霊と副霊とは常に闘ってをり、本霊が勝てば善を行ふが、副霊が勝てば悪を行ふ事になるから、人間は神と動物との中間性であって、向上すれば神の如く、堕落すれば獣の如くになるのは世間を見てもよく分るであらう。では一体副霊とは何の霊かといふと、日本人は男性にあっては天狗、蛇、狸、馬、犬、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、其(その)他種々の霊もあり、女性にあっては狐、蛇、猫、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、他にも色々な霊があり、又此(この)副守護霊以外臨時に憑(つ)く霊もある。斯(こ)んな事をいふと現代人は馬鹿々々しくて到底信じられまいが、之は一点の誤りなき真実であって、之が信じられないのは其(その)人は唯物迷信の為であるから此(この)迷信を一擲(いってき)すれば直(じき)に判るのである。何よりも人間は其(その)憑(つ)いてゐる動物霊の性質がよく表はれてゐるもので、注意すれば何人にも分る筈(はず)である。
 右の如く臨時に憑(つ)く霊も、殆(ほと)んどは動物霊であって、偶(たま)には人間の死霊(しりょう)もあり、極く稀(まれ)には生霊(いきりょう)もある。では臨時霊が憑(つ)く理由は何かといふと、言う迄もなく其(その)人の霊の清濁(せいだく)によるので、曇りの多い程悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く、又元からの副霊の力も増すから、どうしても悪い事をするやうになる。此(この)理によって現代人の大部分は霊が曇り切ってゐるから、悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く活動し易い為、犯罪が増へるのである。処がそれとは反対に神仏の信仰者は曇りが少なく、善行を好むのは魂が清まってをり、悪霊(あくりょう)を制圧する力が強いからで、茲(ここ)に信仰の価値があるのである。従って無信仰者は平常善人らしく見へても、何時(いつ)悪霊(あくりょう)が憑依(ひょうい)するか分らない状態にあるので、一種の危険人物といってもいい訳である。此(この)理によってより良き社会を実現するには、清い魂の持主を増やすより外(ほか)に道はないのである。そうして本来魂なるものは一種の発光体であって、動物霊は此(この)光を最も怖れるのである。処が現代人の殆(ほと)んどは魂が曇ってをり、動物霊といふ御客様は洵(まこと)に入りいいやうになってゐるから、忽(たちま)ち人間は躍(おど)らせられるので、百鬼(ひゃっき)夜行(やぎょう)の社会状態になってゐるのも当然である。而(しか)も其(その)様な事に盲目である為政者(いせいしゃ)は、只(ただ)法と刑罰のみによって悪を防止しやうとしてゐるのであるから、全然的(まと)を外(はず)した膏薬(こうやく)張で効果の挙がる筈(はず)がないのである。何よりも国会を見ても分る如く、殆(ほと)んどの議案は法律改正と追加といふ膏薬(こうやく)製造法であるから、之を常に見せつけられる吾々は、其(その)無智に長大息(ちょうたいそく)を禁じ得ないのである。
 以上の如く悪なるものは大体判ったであらうが、此(この)根本解決こそ信仰以外にない事は言うまでもない。併(しか)し単に信仰といっても其(その)拝む的(まと)である神にも上中下の階級があり、それが百八十一級にも及んでゐると共に、正神と邪神との差別もあるから、之を見別けるには相当困難が伴ふのである。世間よく熱烈な信仰を捧げても思うやうな御利益がなく、病気も治らず、行ひも面白くない人があるが、それは其(その)的(まと)である神の力が弱く、邪神の活躍を阻止する事が出来ないからである。而(しか)も困る事には此(この)状態を見る世人は、之こそ低級な迷信と思ひ、偶々(たまたま)本教の如き正しい宗教を見てもそれと同一視するのであるから実に遺憾に堪へないのである。そうして昔から一般人は神とさへ言へば、只(ただ)尊いもの有難いものと決めて了(しま)ひ、差別のあるなど知らない為、甚だ危険でもあった。尤(もっと)も今日迄最高神の宗教は全然現はれなかったからでもあるが、喜ぶべし茲(ここ)に最高神は顕現され給ふたのである。
 それが為今日迄の神は仮(たと)へ正しく共次位の階級であるから、其(その)力が弱く正邪相争ふ場合一時的ではあるが悪の方が勝つので、之を見る人々はそれに憧(あこが)れ、真似しやうとする。特に野心あり力量ある者程そうであるのは、歴史を見ても分る通り、幾多英雄豪傑の足跡である。成程一時は成功しても最後は必ず失敗するのは例外がないのである。之を霊的にみると其(その)悉(ことごと)くは邪神界の大物の憑依(ひょうい)であって面白い事には最初はトントン拍子にゆくので有頂天になるが、それも或(ある)程度迄で必ず挫折する。そうなると憑依(ひょうい)霊は忽(たちま)ち脱却して了(しま)ふ。吾々の知る範囲内でもカイゼル、ムッソリーニ、ヒットラーの如きがそうで、失敗後は人が違ふかと思ふ程痴呆暗愚的(ちほうあんぐてき)に気の抜けたやうになったが、之は大きな邪霊が抜けた後は誰でもそうなるものである。そうして驚くべき事は邪神界の総頭領は、今から二千数百年前、世界の覇権を握るべく、周到綿密にして永遠な計画を立て、現在迄暗躍を続けつつあるが、正神界の方でも之に対立し戦ってゐるのである。其(その)神としてはキリスト、釈迦、マホメット、国常立尊の系統の神である。
 以上の如く主神は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、其(その)結果遂に邪神の方が九分九厘迄勝ったのが現在であって、茲(ここ)に主神は愈々(いよいよ)一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給ふ、之が九分九厘と一厘の闘ひであって、今や其(その)一歩手前に迄来たのである。従って此(この)真相を把握されたとしたら、何人と雖(いえど)も飜然(ほんぜん)と目覚めない訳にはゆかないであらう。

天国建設の順序と悪の追放


 天国建設の順序と悪の追放
 抑々(そもそも)此(この)世界を天国化するに就(つい)ては、一つの根本条件がある。それは何かといふと、現在大部分の人類が心中深く蔵(かく)されてゐる悪の追放である。それに就(つい)て不可解な事には、一般人の常識からいっても悪を不可とし、悪に触れる事を避けるのは勿論、倫理、道徳等を作って悪を戒め、教育も之を主眼としてをり、宗教に於(おい)ても善を勧め、悪を排斥してゐる。其(その)他社会何(いず)れの方面を見ても、親が子を、夫は妻を、妻は夫を、主人は部下の悪を咎(とが)め戒めてゐる。法律も亦(また)刑罰を以(もっ)て悪を犯さぬやうにしてゐる等、之程の努力を払ってゐるに拘(かか)はらず、事実世界は善人より悪人の方が多く、厳密に言へば十人中九人迄が、大なり小なりの悪人で、善人は一人あるかなしかといふのが現実であらう。
 併(しか)し乍(なが)ら単に悪人といっても、それには大中小様々な種類がある。例へば一は心からの悪、即ち意識的に行ふ悪、二は不知(しらず)不識(しらず)無意識に行ふ悪、三は無智故(ゆえ)の悪、四は悪を善と信じて行ふ悪等である。之等に就(つい)て簡単に説明してみると斯(こ)うであらう。一は論外で説明の要はないが、二は一番多い一般的のものであり、三は民族的には野蛮人、個人的には白痴、狂人、児童等であるから問題とはならないが、四に至っては悪を善と信じて行ふ以上正々堂々として而(しか)も熱烈であるから、其(その)害毒も大きい訳である。之に就(つい)ては最後に詳しくかく事として、次に善から見た悪の世界観をかいてみよう。
 前記の如く現在の世界を大観すると、全く悪の世界といってもいい程で、何よりも昔から善人が悪人に苦しめられる例は幾らでも聞くが、悪人が善人に苦しめられる話は聞いた事がない。此(この)様に悪人には味方が多く、善人には味方が少ないので、悪人は法網を潜(くぐ)り、堂々世の中を横行闊歩(かっぽ)するに反し、善人は小さくなって戦々(せんせん)兢々(きょうきょう)としてゐるのが社会の姿である。此(この)様に弱者である善人は、強者である悪人から常に虐(しいた)げられ、苦しめられるので、此(この)不合理に反抗して生れたのが彼(か)の民主々義であるから、之も自然発生のものである。処が日本に於(おい)ては長い間の封建思想の為、弱肉強食的社会が続いて来たのであるが、幸ひにも外国の力を借りて、今日の如く民主々義となったので、自然発生と言うよりも、自然の結果といった方がよからう。といふやうに此(この)一事だけは、珍らしくも悪に対して善が勝利を得た例である。併(しか)し外国と異って日本は今の処生温(なまぬる)い民主々義で、まだまだ色々な面に封建の滓(かす)が残ってゐると見るのは私ばかりではあるまい。
 茲(ここ)で悪と文化の関係に就(つい)てかいてみるが、抑々(そもそも)文化なるものの発生原理は何処(どこ)にあったかといふと、根本は善悪の闘争である。それは古(いにし)への野蛮未開時代からの歴史を見れば分る通り、最初強者が弱者を苦しめ、自由を奪ひ、掠奪殺人等恣(ほし)いままに振舞ふ結果、弱者にあってはそれを防止せんとして種々の防禦法(ぼうぎょほう)を考へた。武器は固(もと)より垣を作り、備へをし、交通を便にする等、集団的にも個人的にも、凡(あら)ゆる工夫を凝(こ)らしたのであって、此(この)事が如何(いか)に文化を進めるに役立ったかは言う迄もない。それから漸次(ぜんじ)進んで人智は発達し、文字の如きものも生れ、集団的契約を結ぶやうになったが、今日の国際条約の嚆矢(こうし)であらう。尚(なお)社会的には悪を制圧するに法や罰則を作り、之が条文化したものが今日の法律であらう。処が現実はそんな生易しい事では、人間から悪を除く事は到底出来なかった。寧(むし)ろ人智の進むにつれて悪の手段が益々巧妙になるばかりである。といふやうに人類は原始時代から悪の横行とそれを防止する善との闘争は絶へる事なく今日に至ったのである。然(しか)しそれによって如何(いか)に人智が進み文化が発達したかは知る通りであって其(その)為の犠牲も亦(また)少なくなかったのは亦(また)止むを得ないといふべく、兎(と)に角(かく)現在迄は善悪闘争時代が続いて来たのである。処がそれら善人の悩みを幾分でも緩和すべく、時々現はれたのが彼(か)の宗教的偉人で、其(その)教の建前としては物欲を制限し、諦観(ていかん)思想を本位とし、従順を諭(おし)へると共に、将来に希望を有(も)たせるべく地上天国、ミロクの世等の理想世界実現を予言したのである。又一方悪に対しては極力因果の理を説き、速(すみや)かに悔(く)ひ改めるべく戒めたのは勿論で、それが為幾多の苦難に遭ひ、血の滲むやうな暴圧に堪へつつ教へを弘通(ぐつう)した事蹟は、涙なくしては読まれないものがある。成程之によって相当の効果は挙げたが、然(しか)し大勢はどうする事も出来なかった。又反対側である無神主義者の方でも学問を作り、唯物的方法を以(もっ)て悪による災害を防ごうとして努力した。其(その)結果科学は益々進歩し、文化は予期以上の成果を挙げたのである。然(しか)るに一方思はざる障碍(しょうがい)が生れたといふのは、右の如く進歩した科学を悪の方でも利用するやうになった事である。
 先(ま)づ戦争を見ても判る通り、兵器は益々進歩すると共に、凡(すべ)てが大規模になりつつある結果生れたのが彼(か)の原子爆弾である。之こそ全く夢想だもしなかった恐怖の結晶であるから、此(この)発見を知った誰もは、愈々(いよいよ)戦争終焉(しゅうえん)の時が来たと喜んだのも束(つか)の間(ま)、之を悪の方でも利用する危険が生じて来たので、不安は寧(むし)ろ増大したといってもいい。とはいふものの結局戦争不可能の時代の接近した事も確かであらう。之等を深く考えてみる時結局悪が戦争を作り、悪が戦争を終結させるといふ奇妙な結果となったのである。斯(こ)う見てくると、善も悪も全く深遠なる神の経綸に外(ほか)ならなかった事はよく窺(うかが)はれる。そうして精神文化の側にある人も、物質文化の側にある人も、心からの悪人は別とし、共に平和幸福なる理想世界を念願してゐるのは言う迄もないが、只(ただ)問題は果して其(その)実現の可能性がありやといふ事と、ありとすれば其(その)時期である。処がそれらに就(つい)ての何等の見通しもつかない為、人類の悩みは深くなるばかりである。そこで心ある者は怪疑の雲に閉されつつ、突当った壁を見詰めてゐるばかりであるし、中には宗教に求める者、哲学で此(この)謎を解こうとする者などもあるが、大部分は科学の進歩によってのみ達成するものと信じ努力してゐるが、之も確実な期待は得られそうもないので、行詰り状態になってゐる。処が現実を見れば人類は相変らず病貧争の三大災厄の中に喘(あえ)ぎ苦しみ乍(なが)ら日々を送ってゐる。処が之等一切の根本を神示によって知り得た私は、凡(あら)ゆる文化の誤謬(ごびゅう)を是正すべく解説するのである。
 前記の如く悪なるものが、人間の不幸を作るとしたら、神は何故悪を作られたかといふ疑問である。然(しか)し此(この)様な不可解極まる難問題は、到底人智では窺(うかが)ひ知る由もないから、諦めるより致し方ないとして、宗教は固(もと)より如何(いか)なる学問も、今日迄之に触れなかったのであらう。然(しか)し何といっても之が明かにならない限り、真の文明は成立される筈(はず)はないのである。そこで之から其(その)根本義を開示してみるが、実は現在迄の世界に於ては悪の存在が必要であったので、此(この)事こそ今日迄の世界の謎でしかなかったのである。そうして悪の中で最も人間の脅威とされてゐたものは、何といっても生命の問題としての戦争と病気の二大災厄であらう。そこで先(ま)づ戦争からかいてみるが、戦争が多数の人命を奪ひ、悲惨極まるものであるのは今更言う迄もないが、此(この)災厄から免(まぬが)れやうとして、人間はあらん限りの智能を絞り努力を払って来た事によって、思ひもつかない文化の発達は促進されたのである。見よ勝った国でも負けた国でも、戦争後の目覚ましい発展振りは如何(いか)なる国でも例外はあるまい。仮に若(も)し最初から戦争がないとしたら、文化は今以(もっ)て未開のままか、さもなくば僅(わず)かの進歩しか見られなかったであらう。そのやうにして戦争と平和は糾(あざな)える繩の如くにして、一歩一歩進んで来たのが現在迄の文化の推移である。之が又社会事情にも人間の運命にも共通してゐる処に面白味がある。之によって之をみれば善悪の摩擦相剋(そうこく)こそ、実は進歩の段階である。
 斯(こ)うみてくると、今日迄は悪も大きな役割をして来た訳になる。といっても悪の期間は無限ではなく限度がある。それは世界の主宰者たる主神の意図であり、哲学的に言へば絶対者とそうして宇宙意志である。即ちキリストが予言された世界の終末であり、そうして次に来(きた)るべき時代こそ、人類待望の天国世界であり、病貧争絶無の真善美の世界、ミロクの世等名は異るが意味は一つで、帰(き)する処善の勝った世界である。此(この)様な素晴しい世界を作るとしたら、それ相応の準備が必要である。準備とは精神物質共に、右の世界を形成するに足るだけの条件の揃(そろ)ふ事である。処が神は其(その)順序として物質面を先にされたのである。といふのは精神面の方は時を要せず、一挙に引上げられるからで、それに反し物質面の方はそう容易ではない。非常に歳月を要すると共に、其(その)為には何よりも神の実在を無視させる事である。之によって人間の想念は自然物質面に向く。茲(ここ)に無神論が生れたのである。故(ゆえ)に無神論こそ実は悪を作る為の必要な思想であったのである。斯(か)くして悪が生れ、漸次(ぜんじ)勢を得て善を苦しめ争闘を起し、人類をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は這上(はいあが)らうとして足搔(あが)くのは勿論、発奮努力によって苦境から脱(のが)れやうとした。それが文化発展に拍車を掛けたのであるから、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。
 以上によって善悪に就(つい)ての根本義は大体分ったであらうが、愈々(いよいよ)茲(ここ)に悪追放の時が来たので、それは善悪切替の境目(さかいめ)であるから、悪にとっては容易ならぬ事態となったのである。右は臆測でも希望でも推理でもない。世界経綸の神のプログラムの現はれであるから、信ずると信ぜざるとに拘はらず、右は人類の決定的運命であって、悪の輪止(りんどま)りであり、悪が自由にして来た文化は、一転して善の手に帰(き)する事となり、茲(ここ)に地上天国樹立の段階に入ったのである。

既成文化の謬点(びゅうてん)


 既成文化の謬点(びゅうてん)
 此(この)著は序文にもある通り、現代文明に対する原子爆弾といってもよからう。そうして既成文明の根幹となってゐる宗教も、思想も、哲学も、教育も、科学も、芸術も悉(ことごと)く包含されてをり、其(その)一々に就(つい)て鋭い眼を以(もっ)て、徹底的に批判し究明し、赤裸々に露呈してあるから、之を読むとしたら何人と雖(いえど)も古い衣を脱ぎ棄(す)て、新しき衣と着更(きが)へざるを得ないであらう。此(この)意味に於て本著が人々の眼を覚ますとしたら、茲(ここ)に既成文明は一大センセーションを捲起し、百八十度の転換となるのは必然であり、此(この)著完成の暁は全世界の宗教界、各大学、学界、言論界、著名人等に適当な方法を以(もっ)て配布すると共に、ノーベル賞審査委員会にも出すつもりであるが、只(ただ)惜しむらくは同審査委員諸氏は、唯物科学の権威であるから、初めから理解する事は困難であらうが、此(この)著の説く処科学の根本をも明示してあり、悉(ことごと)くが不滅の真理である以上、充分検討されるとしたら、理解されない筈(はず)はないと思うのである。
 之に就(つい)て重要な事は、今日迄の学者の頭脳である。それは彼等は宗教と科学とを別々のものとして扱って来た事で、此(この)考へ方こそ大きな誤りであったので、それを根本から解明するのが此(この)著の目的である。そうして地球上に於ける森羅万象一切は、相反する二様のものから形成されてゐる。それは陰陽、明暗、表裏、霊体といふやうになってゐる。処が今日迄の学問は体の面のみを認めて、霊の面を全然無視してゐた事である。といふのは霊は目に見えず、機械でも測定出来なかったからでもあるが、其(その)為学問では今日迄地球の外部は、只(ただ)空気と電気だけの存在しか分ってゐなかったのである。処が私はそれ以外確実に存在してゐる霊気なるものを発見したのである。之に就(つい)ては先(ま)づ地球上の空間の実態からかいてみるが、それは斯(こ)うである。即ち前記の如く霊気(火)空気(水)の二原素が密合し、一元化した気体のやうなものが、固体である地塊(土壌)を包んでをり、此(この)三原素が合体して、宇宙の中心に位置してゐるので、之が吾々の住んでゐる世界及び周囲の状態である。処が科学は右の空気と土壌のみを認めて、霊を認めなかったが為、空気と土壌の二原素のみを対象として研究し進歩して来たのであるから、言はば三分の二だけの科学で全体ではなかったのである。此(この)根本的欠陥の為如何(いか)に進歩発達したといっても、三位一体的真理に外(はず)れてゐる以上、現在の如き学理と実際とが常に矛盾してゐたのであるから、此(この)欠陥を発見し是正しない限り、真の文明世界は生れる筈(はず)はないのである。そうして右三者の関係を一層詳しくかいてみると、経(たて)には霊、空、地の順序となってをり、彼(か)の日月地の位置がよくそれを示してゐると共に、緯(よこ)即ち平面的には三者密合し重り合ひ、距離は絶対なく、渾然(こんぜん)と一丸になって中空に浮んでゐるのが地球である。勿論三者夫々(それぞれ)の性能と運動状態は異ってゐる。即ち火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れ地は不動体となってゐるが、之は絶対ではなく、呼吸運動による動体中の不動体である。そうして経(たて)と緯(よこ)とは超微粒子の綾状的気流となって、地球を中心として貫流し、運動してゐるのである。そうして此(この)気流なるものは空の如く無の如くである為、現在の学問程度では到底把握出来ないのである。然(しか)るに意外にも此(この)気体其(その)ものこそ、実は一切万有の力の根原であって、其(その)本質に至っては実に幽幻霊妙想像に絶するものである。仏者のいふ覚者とは此(この)一部を知り得た人間を言ったもので、それ以上になった者が大覚者であり、一層徹底した大覚者が見真実の境地に到達したのである。釈迦、キリストは此(この)部類に属するのであるが、只(ただ)併(しか)し此(この)二聖者は時期尚早の為、或(ある)程度以上の力を附与されなかった事である。それが為救世的力の不足はどうしやうもなかった。其(その)証拠として両聖者は固(もと)より、其(その)流れを汲んだ幾多覚者達の努力によっても、今以(もっ)て人類の苦悩は解決されないに見て明かである。処が愈々(いよいよ)天の時来って絶対力を与へられ、其(その)行使による人類救済の大使命を帯びて出顕したのが私である以上、私によって真理の深奥を説き、人類最後の救ひを実行すると共に、新文明世界設計に就(つい)ての指導的役割をも併せ行ふのであるから、実に全人類に対する空前絶後の一大福音(ふくいん)である。
 茲(ここ)で話は戻るが、前記の如き物質偏重の文化を見真実の眼を以(もっ)て、大局から検討してみる時、意外にもそれによって今日の如き絢爛(けんらん)たる文化が発生し、進歩しつつあったのであるから、此(この)矛盾こそ実に神秘極まるものであって、之こそ神の経綸に外(ほか)ならないのである。之を一言にしていえば、現在迄の文明は前記の如く体的面は成功したが、霊的面は失敗した事である。では何が故(ゆえ)に神は最初から失敗のない完全な文明を創造されなかったかといふと、此(この)疑問こそ此(この)著を順次精読するに従ひ、初めて判然と理解されるのである。

序文


 序文
 此(この)著は歴史肇(はじま)って以来、未(いま)だ嘗(かつ)てない大著述であり、一言にしていへば新文明世界の設計書ともいふべきもので、天国の福音(ふくいん)でもあり、二十世紀のバイブルでもある。といふのは現在の文明は真の文明ではないので、新文明が生れる迄の仮の文明であるからである。聖書にある世の終りとは、此(この)仮想文明世界の終りを言ったものである。又今一つの〝洽(あまね)く天国の福音(ふくいん)を宣(の)べ伝へられるべし。然(しか)る後末期到る〟との予言も、此(この)著の頒布(はんぷ)である事は言う迄もない。そうしてバイブルはキリストの教へを綴ったものであるが、此(この)著はキリストが繰返し曰(い)はれた処の、彼(か)の天の父であるエホバ直接の啓示でもある。又キリストは斯(こ)うも言はれた。『天国は近づけり、爾等(なんじら)悔(くい)改めよ』と。之によってみれば、キリスト自身が天国を造るのではない。後世誰かが造るといふ訳である。
 処が私は天国は近づけりとは言はない。何となれば最早(もはや)天国実現の時が来たからである。それは目下私によって天国樹立の基礎的準備に取り掛ってをり、今は甚だ小規模ではあるが、非常なスピードを以(もっ)て進捗しつつあって凡(すべ)てが驚異的である。それというのも一切が奇蹟に次ぐ奇蹟の顕はれで、人々は驚嘆してゐる。そうして之を仔細に検討して見る時、神は何万年前から細大漏す処なく、慎重綿密なる準備をされてゐた事である。之は明瞭に看取(かんしゅ)出来るが、其(その)根本は旧文明の清算と新文明の構想にあるのであって、私はそれに対し実際を裏付とした理論を、徹底的に此(この)著を以(もっ)て説くのである。そうして先(ま)づ知らねばならない肝腎な事は、旧文明は悪の力が支配的であって、善の力は甚だ微弱であった事である。処が愈々(いよいよ)時期来って今度は逆となり、茲(ここ)に世界は地上天国実現の段階に入るのである。然(しか)し之に就(つい)ては重大問題がある。といふのは旧文明は当然清算されなければならないが、何しろ世界は長い間の悪の堆積による罪穢(ざいえ)の解消こそ問題で、之が世界的大浄化作用である。従って之による犠牲者の数は如何(いか)に大量に上るかは、到底想像もつかない程であらう。勿論之こそ最後の審判であって、亦(また)止む事を得ないが、神の大愛は一人でも多くの人間を救はんとして私といふ者を選び給ひ、其(その)大業を行はせられるのであって、其(その)序曲といふべきものが本著であるから、此(この)事を充分肝に銘じて読まれたいのである。
 そうして右の如く最後の審判が終るや、愈々(いよいよ)新世界建設の運びになるのであるが、其(その)転換期に於ける凡(あら)ゆる文化の切換へこそ、空前絶後の大事変であって、到底人間の想像だも不可能である。勿論旧文明中の誤謬(ごびゅう)の是非を第一とし、新文明構想の指針を与へるものである。それを之から詳しく説くのであるが、勿論之を読む人々こそ救ひの綱を目の前に下げられたと同様で、直(すぐ)に之を摑めば救はれるが、そうでない人は後に到って悔(くい)を残すのは勿論で、時已(すで)に遅しである。以上の如く罪深き者は亡び、罪浅き者は救はれて、将来に於ける地上天国の住民となり得るのである。そうして来(きた)るべき地上天国たるや其(その)構想の素晴しさ、スケールの雄大さは到底筆舌に尽せないのである。其(その)時に到って現在迄の文明が如何(いか)に野蛮極まる低劣なものであったかがハッキリ判ると共に、人類は歓喜に咽(むせ)ぶであらう事を断言するのである。

『文明の創造』 目次

目 次

総 篇


科学篇

病気とは何ぞや
病気と医学
医学の解剖
病気とは何ぞや
 寒冒
肺炎と結核
肺患と薬毒
結核と精神面
自然を尊重せよ
結核と特効薬
栄養
人間と病気
無機質界
霊主体従
薬毒の害
心臓
胃病
主なる病気(一)
 腎臓病と其(その)他の病
主なる病気(二)
 肋膜炎と腹膜炎
喘息
肝臓、胆嚢(たんのう)、膀胱の結石
神経痛とリョウマチス
上半身の病気と中風
脳貧血其(その)他
 睡眠不足
 耳鳴
 其(その)他のもの
 扁桃腺炎
口中の病など
下半身の病気と痔疾
婦人病
小児病
総論
手術
薬毒の種々相
人形医学
擬健康と真健康
種痘

宗教篇
 
最後の審判
霊的病気
 癌病
 結核と憑霊(ひょうれい)
 精神病と癲癇(てんかん)
唯物医学と宗教医学
霊界に於ける昼夜の転換
仏滅と五六七の世
仏教の起源
伊都能売(いづのめ)神
観世音菩薩
彌勒三会(さんえ)
仏教に於ける大乗小乗
キリスト教
善悪発生とキリスト教
経(たて)と緯(よこ)

天国篇

天国篇
ミロクの世の実相



お陰話批判 目次


歯痛も此通り
鶏群の一鶴
医療と薬毒の恐怖
医療の恐怖
浄霊は精神療法ではない
浄霊医術
浄霊は輸血なり
浄霊の偉効
神霊と科学
医学と結核
嗚呼結核医学
死産児助かる
此救い1
結核と薬毒
日本の誇り
体験者の興味ある話
文化と非文化
医療被害者の一例
之も奇蹟
信じなくても治る
医学の罪悪2
首振り病の奇蹟
幸福の道
迷信と正信
結核感染の誤謬
盲腸炎など此通り
医学を救う
病気治療は浄霊以外になし
此事実を何と見る
結核全快者の感想
十一年間の看護婦の告白
特異体質は逃げ言葉?
三つの病併合の重症一回で治る
噫々此奇蹟
無神論者忽ち兜を脱ぐ
此奇蹟(医学革命の書)
浄霊で死者蘇える
動脈瘤なんか何でもない
偉大なる哉我浄霊
無神論者よ
幼稚なる医学
嗚呼此悲劇
野蛮なる医学
嗚呼医学の犠牲者
医学の無力と浄霊の偉力
偉大なる哉神霊医術
空洞など何でもない
結核も此通り全治する
信じなくとも此通り治る
盲腸炎など何でもない
驚異的浄霊の偉効
医学と浄霊
結核患者の告白
小児結核此通り治る
ヒロポン禍治る
本で救われる
生殖神経衰弱の全治
腰椎カリエス治る
嗚呼医学というもの
浄霊こそ根治法
薬剤中毒
此救い2
何と医学の幼稚なる事よ
迷信打破の困難
蛔虫は無薬で治る
天国と地獄
癌が何なく治る
噫々医療というもの
医学が結核を作る事実
浄霊は手術以上
手術とは
精神病の原因
角膜実質炎について医師との問答
造物主の侮辱?
浄霊で豚の病気まで治る
眼病は必ず治る1
此救い3
助産婦の告白
医学の恐ろしさ
精神病でも此通り治る
嗚呼医療とは
此偉大なる救い
自己経験によって医学の蒙を悟る
神書拝読で治る
結核は治りいい病気
疫痢は簡単に治る
非科学的浄霊に救わる
疑い結構
小児結核も此通り
小児麻痺此通り治る
顔面神経痛治る
手術無用
結核医学の恐怖
医学の出鱈目
二十年間のリョウマチ簡単に治る
嗚呼此奇蹟
高血圧訳なく治る
医学の罪悪3
浄霊で何でも治る
手術の無力
看護婦の見た医学と浄霊
精神病など何でもない
ノーベル賞的偉効
嗚呼医学の迷蒙
結核に対する医療と浄霊
結核は浄霊以外治す方法ない
眼の傷害も此通り
医学の盲点
精神病も此通り治る
色眼鏡
皮膚病
盲目的医学
医療は一時的
眼病は必ず治る2

目次

眼病は必ず治る


          眼病は必ず治る  (昭和二十八年)

  此患者の眼病は、医師から半年かかるか一年かかるか、それ以上かかるか判らないと曰はれたのが、僅か十日間で全治したのであるから、奇蹟以上であろう。その際の医師の言にも同様の眼病で七年間も通って今だに治らない人もあるというに徴しても眼病は特に長びくものとされてゐる。にも拘はらず右の如く速かに治ったのであるから、此事だけでも医学は革命の値打ちがあろう。又此一例だけでもノーベル賞の価値は充分あるであろう。
  此様な訳で、私は常にどんな盲目でも必ず治ると言明してゐる。若し治らない人があるとしたら、その人は手術をしたか、散々薬毒を注入したからで、そうでないとしたら十人が十人全治する。故に此事が一般に知れ亘ったなら、盲人のない世界が出来るのは当然である。此様に私は肉体の盲目を治すのは訳はないが、治り難いのは心の盲目である。
       吾子の眼病を御救い頂いて(本文省略)

医療は一時的


           医療は一時的  (昭和二十八年)

  医療は一時的効果を狙ったものである事は、此患者の例にみても分るであろう。即ち医療では治ったと思へば、又悪くなるというやうに、繰返す事三ケ月に及んでも快くならず、非常に困ってゐた処、近所の女中さんが浄霊して一ケ月で全治させたばかりか、病気前より奇麗になったと喜んでゐるのである。而も此女中さんは五日前に教修を受けたばかりで、之程の患者を見事治したのであるから、それに当った博士等は学位返上してもいいと思ふ。
        お岩さまそこのけの顔 おかげで以前以上に(本文省略)

皮膚病


          皮膚病  (昭和二十八年)

  皮膚病に対する医学の治療法が、如何に間違ってゐるかは、此患者の経過がよく物語ってゐる。元来皮膚病は体内毒素が溶けて、皮膚から排泄されやうとする症状で、それを医療は薬を塗布したりして出さないやうにする。その為毒素は皮膚下に停滞し、青ん膨れになったり苦しむのである。故に如何なる皮膚病でも、放っておけば膿が出るだけ出て、必ず治るのを逆解して治さないやうにするのだから、一種の加害的行為といえやう。
  私の長い経験によっても最初一寸した皮膚病でも、医療を受け乍ら段々拡がり、手が付けられないやうになり、命さへ失ふ人の事を聞くが、全く可哀想なものである。
        危うし無信仰 幼児の湿疹にて大愛を知る(本文省略)

盲目的医学


          盲目的医学  (昭和二十八年)

  此患者の症状からみると、原因は多量の薬毒が首筋から排泄されやうとして、その部へ一時的固ったもので、単純な浄化作用である。それが五人の医師が診断しても原因不明というのであるから、全く病気は浄化作用なる真理を知らないからで、その犠牲にされる患者こそ気の毒なものである。
        難症の腫物を癒さる(本文省略)


色眼鏡


          色眼鏡  (昭和二十八年)  

  此患者の経過を見ると、医学の誤りが洵によく現はれてゐる。原因は十七才の時トゲを刺したので、治そうとして漢方薬を服用した処、その固結が数十年を経て浄化作用が起ったので、四人の医師にかかり様々の療法を受けたが、漸次悪化し二進も三進もゆかなくなり、職業まで放棄せざるを得なくなった時、幸ひ浄霊によって救はれたのである。
  之によっても分る通り、薬が病気を作り、医療が悪化させる事実が、洵にハッキリしてゐる。処が不思議といはうか、医師は常にそれを見ながら気が付かない、というのは、科学の黒眼鏡を掛けてゐるからである。故に結果に於て医の仁術が不幸な人を作りつつある訳で、而も政府はそれを奨励してゐるのであるから、全く暗の世の中である。            
   気管支喘息を御救い戴いて(本文省略)


医学の盲点


           医学の盲点  (昭和二十八年)

  之は時々聞く話だが、患者がそこここに何程苦しいといっても、医師は入念に診て悪い所は少しもない、貴方の神経の所為だといはれ、患者は取付く島もなく悲観のドン底に叩き込まれる。併しよく考えてみると、之は甚だ可笑しな話ではないか。何故なれば、どこも何ともないのに苦しい筈はない訳だ。之は常識で考へても分る通り、必ず何処かに原因があるに違ひないが、医診ではそれが判らないだけの話で、若し医師が良心的なら自分には判らないと言うべきだが、それでは信用にも関り、職業上工合が悪いから、心ならずもそういうのであろうが、患者こそ可哀想なものである。而も原因不明のまま治療するのだから、無責任も甚だしいと言へやう。つまり患者は医師の犠牲になる訳である。
  此様な頼りない医学を進歩したと思ひ、病気は手後れにならない内、早く診て貰へなどというのは、実は理屈に合はない話ではないか。之も全く医学が幼稚であるからで止むを得ないが、何にしても命が惜しければ本教に縋るより外に方法のない事は勿論である。
         不眠症  狂人一歩手前に救わる(本文省略)


精神病も此通り治る


          精神病も此通り治る  (昭和二十八年)

  近来日本もアメリカも、精神病患者激増で弱ってゐるとの事だ。特に日本など病院が足りないと悲鳴を上げてゐる。そんな訳で医学は、精神病は治らないものと決めてゐるが、我浄霊によれば十人の内九人迄は必ず治る。といふのは此病原は体的ではなく、霊的であるからである。それなら宗教でさへあれば治るかというとそうもゆかない。というのは、本当に治す力ある宗教は殆んどないからである。処が左の報告の如く、浄霊で容易に全快したので、此事実は世界肇って以来まだ例はないであろう。
  とはいうものの、之を知らない人が多い今日、実に情ないと思うが、之に就いては此栄光紙を数年前から厚生省へも毎号数部宛配布してゐるに拘はらず、今日迄何等反響のないのをみると、全く不可解である。此浄霊効果は医学とは桁外れである事は分る筈だが、右の如しとすれば全く医学迷信の為である事は否めない。之にみても私の理想である病なき日本とするには、前途尚遼遠と思うが、それは人間の見方であって、万能の神は意想外な手を打ち、一挙に分らせる時の来るのも左程遠くはないと思う。
        手のつけられぬ妻の精神病をお救ひ戴く(本文省略)

眼の傷害も此通り


          眼の傷害も此通り  (昭和二十八年) 

  世間よく過って眼球を傷つけた場合、慌てて眼科医へ行くが、仲々治らないもので、巧くいっても普通数ケ月はかかる。それだけならいいが、その結果往々失明する人さへある。之に就いて面白い話がある。それは今から廿数年前、私が民間療法を始めた頃、或日老年の町医者で、三十年前から学校医をしてゐる人が訪ねて来た。訊いてみると半年程前入浴中、石鹸水が眼に入り非常な痛みと共に、段々悪くなるので、幸ひ息子が某大学病院の眼科医なので、最新の凡ゆる療法を試みたが、治らない処か段々悪くなり、失明の一歩手前にまで来た。その時私の話を聞き訪ねたとの事である。見るとその通りであったが、数回の浄霊で全治し驚いたのは勿論である。数日後礼に来たので、その際聞いて唖然とした事は、家族の者には絶対秘密にしてゐるとの話で、不思議に思ひ訊いた処、曰く“若し之が知れたら医師会から除名され、学校医は免職され、家族の者にはどんなに怒られるか知れない”というので、私は呆れざるを得なかった。尤もその頃は今日と違ひ、社会の空気もそうであったからである。
  此事をフト思ひ出したので茲にかいた訳だが、当時の私はまだ未熟であったに拘はらず、之程の効果を現はしたにみても、眼病は如何に治りいいかが分るであろう。
        天秤棒で失明寸前の傷 一日半で癒さる(本文省略)


結核は浄霊以外治す方法ない


          結核は浄霊以外治す方法ない  (昭和二十八年)

  此患者の一家は、結核で三人も死亡し、四人目の三男が又結核に罹った処、全治したのであるから、若し此患者も浄霊を知らず、医療のみで治さうとしたら、命のなかった事は勿論である。今日此様な不幸な家庭は至る処にあり、悲惨な世の中である。故に若し此浄霊医術が現はれないとしたら、人類の病気は何時になったら解決出来るか、先づ見込はあるまい。或は人類滅亡の危機となるやも計り知れないと思う。
  それを未然に防ぐ本教こそ、世界救世教の名に愧じまい。之に就いて言いたい事は、神が造った人間の生命を、同じレベルである人間が救ひ得る筈はないではないか。としたら人間以上の力即ち神の力でなくては治らないのが当然である。斯んな簡単な理屈さへ分らない処に、現代文明の過誤があるので、それというのも本教の如き偉大な救いが現はれなかったからである。
        吾子の結核救われ 数々の御守護を頂く(本文省略)


嗚呼医学の迷蒙


          嗚呼医学の迷蒙  (昭和二十八年)

此患者の経過をみると、十一年の長い間医師にかかり乍ら、いくら薬を浴びる程服んでも悪くなるばかりなので、遂には自殺の決意までしたというのであるから、その苦しみは察せられる。又医学の誤謬が私の説と些かも違ってゐない事で、それを要約してみると斯うである。
1、診断の出鱈目な事で、最初の医師は肺病、次の医師は胃病、次の医師は乾性肋膜、次の医師は脚気という       のである。
2、医薬が病気を作る事は、療養中次から次へと余病発生するに見て明かである。
3、浄霊を受け始めるや、毎日多量の発汗をみると共に、今迄服んだ凡ゆる薬の匂ひが、猛烈に部屋一杯にひ       ろがり、臭くて我慢が出来ないという。
  右の事実にみても多くを言う必要はあるまい。つまり幼稚極まる医学を信じ、今以て看破出来ないが為であって、此犠牲者こそ洵に哀れなものであり、現在は医学恐怖時代といってよかろう。
        七ケ所も病院をかへた私の難病も こうしてお救ひ戴く(本文省略)


結核に対する医療と浄霊


          結核に対する医療と浄霊  (昭和二十八年) 

  此患者の経過を読めば読む程、医療と浄霊との正反対がよく分る。即ち医学は治す力はなく、浄霊は治す力がある異ひさである。故に此人が若し入院すれば不治となり、不幸な運命は免れ得ないであろう。処が倖せにも一寸した機会で浄霊の味を知った為、入院しながらも医療を拒否したので、全快の喜びを得たのである。
  之によってみても入院料や手術等に多額の金を費し、結果はマイナスとしたら、実に容易ならぬ世の中ではないか。之を救う浄霊こそ大いなる神の恵といえやう。
        一家滅亡の結核治る(本文省略)


ノーベル賞的偉効


          ノーベル賞的偉効  (昭和二十八年)

  子供の病気にも色々あるが、先づ一番親泣かせは小児麻痺で、此病気は医学では絶対治らないとされてゐる。従って入院するとしても、医師は治す為ではなく研究材料にするのであるから、患者は金を出してモルモットにされる訳で、気の毒なものである。処が驚くべし、左記御蔭話の如く最も悪性な小児麻痺が至極順調に治ってゆき、半ケ年にして元通りになったというのであるから大問題である。
  若し之程の素晴しい効果が医療であったとしたら、それこそ大変な騒ぎで、医師会は全国的に発表、新聞はデカデカにかき、その医師は一躍世界的有名となるであろうし、第二の湯川博士が出来るのは勿論である。処が悲しい哉、宗教なるが故に之程の事実に対しても、学者も識者も一顧も与へず、葬り去られるに違ひないから、全く暗黒無明の世界である。
  といって憤慨するには当らない。何となればメシヤの救いである以上、何れは世界中一遍に分る時が来るのは、断じて間違ひはないからである。
        不具者になる処を お救い頂いた涙の御報告(本文省略)


精神病など何でもない


          精神病など何でもない  (昭和二十八年)

  此患者は憂欝症といふ精神病の一種であって、之を治す療法は世界中一つもない。本教のみである。之に就いて知るべき事は、精神病の起る動機は、最初必ず不眠症からであって、不眠が長く続けば先づ精神病の前ぶれと思っていい。故によく眠るやうになれば快復期に向った訳である。そうして此原因は直接は勿論憑霊だが、間接の原因はヤハリ薬毒である。薬毒が延髄部に固まると脳貧血、不眠症になるのであるから、此固りを溶かし排泄させる以外方法はないのである。そうして此病気は日本も米国も近頃大いに増へたとの事であるから、一日も早く之を知らしたいものである。
        母の精神病を御救ひ戴く(本文省略)


看護婦の見た医学と浄霊


          看護婦の見た医学と浄霊  (昭和二十八年)

  子供の病気の中でも、最も恐れられてゐるのは疫痢であろう。何しろ此病気は早いのは半日か一日で死ぬ事さへあるからで、私が長い間沢山の例を聞いた処によっても、助かるより死ぬ方がズッと多いとされてゐる。という訳は、医学は原因も分らず、確実な治療法もないから無理はないが、浄霊は医学とは反対に治り易い病気で、先づ二、三日と思へばよかろう。而も失敗は極く稀で、殆んどは助かるので、此子供も一時は随分心配したに拘はらず、僅かの間に全治したので、元看護婦をしてゐた母親は、医学と浄霊との余りの異いさに驚き、ハッキリ分ったと告白してゐる。
  従って医療にかかり乍ら、大事な子供をワヤにして了う事の多い今日、此浄霊を知っただけでも子供は健康となり、何等心配はなくなるとしたら、之だけでも天国家庭となるのは勿論である。
        医師に死の宣告をされた疫痢が 一回の御浄霊にて治る(本文省略)


手術の無力


           手術の無力  (昭和二十八年)

  今日医学では手術を以て唯一の療法としてゐるが、私からみれば飛んでもない野蛮行為で、先づ頭に文化の二字を付けて文化的野蛮というのが合っているであろう。此患者などは乳腺に出来た腫物を、三回の手術をして、四年間も悩み続けても治らず、医師から見離され絶望のドン底に陥ってゐたのが、僅か二十日間の浄霊によって自然に皮膚が破れ、多量の排膿があり、全治したのであるから、専門家が知ったら何と言うであろう。
  そのやうに如何なる腫物でも、手術をしない方が速かに確実に治る事は断言する。
それは此患者にしても数年かかって治らなかったのは、医療が治らないやうにしたからで、その愚かさは話の外である。嗚呼全世界の医学者諸君よ、一日も早く之に目覚めん事である。
            無稽無慙な医学より救はれて(本文省略)


浄霊で何でも治る


           浄霊で何でも治る  (昭和二十八年)

  此患者は吾々からみれば、極く軽い眼病であるが、それすら医療は原因不明として中々治らない、その無力さである。処が浄霊するや眼病は固より、他に有るだけの病気も治って了ったのであるから、浄霊こそ真の医術であり、現代医学は非医学というより言葉はない。その根本理由は、医学は体的で、吾々の方は霊的であり反対である。即ち一切万有は霊が主で体が従で、之が真理であるからである。之は事実が証明してゐるから疑う余地はない。
        結核性網膜血管炎癒され、数々の御守護頂いて(本文省略)


医学の罪悪


           医学の罪悪  (昭和二十八年)

  此婦人は心臓病と曰はれ、折角出来た子供を二人まで流産させたのであるから、気の毒なものである。勿論医学上からいへば持病の心臓病の為、母体が危険であるからで、医師としては当然な処置であるが、そうかといって結果からいへば、折角出来た子供二人を犠牲にするのであるから、言はば善意の殺人である。之も医学の幼稚な為で止むを得ないが、それを進歩した医学と思ってゐるのであるから恐ろしい気がする。
  何としても之に目覚めさせなければ、人間は余りに可哀想である。
        心臓病全快、天国家庭に(本文省略)


嗚呼此奇蹟


           嗚呼此奇蹟  (昭和二十八年) 

  此婦人は身体が非常に小さく、勿論骨盤も狭いのに姙娠したので、数人の医師は出産不能として、人工流産を極力勧めたに拘はらず、本人は信者なので頑として応じなかった処、八百匁以上の嬰児二人迄無事出産したので、之を見た医師は困って満足な説明が出来なかったそうで、吾々からみれば気の毒に堪へないのである。而も私は姙娠中相談を受けたので、医師が何といっても必ず無事出産する、何程骨盤が狭くとも、骨は伸びるから安心せよと曰った処、出産後医師にその由を言った処、骨は決して伸びるものではないと、断乎否定したとの事である。此様に目の前に事実を見せられても分らないのは全く迷信の為である。
        世紀の奇蹟  嗚呼、骨は伸びる(出産不能の私、二児まで授かる)(本文省略)


高血圧訳なく治る


          高血圧訳なく治る  (昭和二十八年)

  此患者は大した病気はないが、高血圧二百といふので、年令に合はせたら少し高いが、浄霊一週間で百六十に下ったのである。而も浄霊で下ったのは本当に下ったので安心出来るが、医薬で下ったのは一時的で、必ず元通りになるのみか、反って反動的に高くなるのは医師もよく知ってゐるであろう。
  元来高血圧の原因は、血液が薬毒の為濁血となり、それが左右何れかの顎下に固り、それが腕に続いてゐる動脈を圧迫するのである。従って浄霊によればその固りが溶けるから低くなる訳である。
        高血圧、中風症状より救わる(本文省略)


医学の出鱈目


           医学の出鱈目  ( 昭和二十八年)

  此患者の経過を審さに読んでゆく内に、現代医学の幼稚さがハッキリ分る、というのは医師によって十人十色病名が変る事である。而も病気の進行状態からみても、薬毒の為である事は間違いないに拘はらず、それに気が付かない。現在、医学は治病の力は全くないといってよかろう。其結果不幸な人間を作るのみである。私は敢て医学を非難したくはないが、患者自身の告白が異口同音であるから、ありの儘かくのである。之によってみても、人間の生命を科学で解決する事の如何に誤ってゐるかが分るであろう。
        腸の癒着と言はれた私  御浄霊にて全治(本文省略)


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